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【シモン・ボリバル】解放者。ラテンアメリカ解放に生涯を捧げた男

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リベレイター。シモン・ボリバルはラテンアメリカで「解放者」を意味するリベレイターと呼ばれている。1492年にクリストファー・コロンブスが上陸した時から、ラテンアメリカはヨーロッパ諸国の植民地となっていた。それがナポレオンの登場によって激動に時代に突入する。

シモン・ボリバルが熱い魂を持った男であった。最愛の人を僅か2年の結婚生活で死別したシモンは、その後の人生を母国の解放、さらには南米五ヵ国を統一の夢に捧げた。今回はシモンの生涯を簡単に解説したいと思います。

 

 

 

青年期

 

1783年にシモンはスペインから移住したベネズエラの名家で生まれた。幼い頃に両親を亡くしていたシモンだったが、アメリカ大陸有数の資産家であるボリバル家の男として、多くの家庭教師を付けられた。16歳の時にはスペインで任官をしていた伯父を頼ってヨーロッパに留学した。恐らくそこでクリオーリョとして差別的な扱いを受けたと思われる。クリオーリョとは植民地で生まれたスペイン人を指していて、本国で生まれたスペイン人から蔑まれる対象だったようだ。また、ナポレオンに次ぐ知名度だったとされるドイツ人の自然学者アレクサンダー・フォン・フォンボルトには、南米独立の夢を語ったり馬鹿にされるなど、屈辱を味わうことになる。

 

最愛の人との出会い

 

やがてシモンは最愛の人と出会うことになる。彼女の名はマリア・テレサ・ロドリゲス。シモンは当時、家庭教師の家で居候をしていたようで、そこでマリアと出会ったようだ。シモンは「欠陥のない宝石であり、計算なしで価値がある」とマリアにベタ惚れだったようだ。深く愛し合った二人は、結婚することになり、シモンは故郷であるベネズエラに移住する。しかし、二人の結婚生活は僅か二年間で幕を閉じることになる。マリアには南米の環境が合わなかったようで、黄熱病に罹患したのだ。シモンはマリアの死を深く悲しみ、生涯2度と結婚しないことを誓った。シモンは傷心のまま再びヨーロッパに渡り、そこでマリアの父、つまり義父と出会いそこからの縁で、ベネズエラの哲学者シモン・ロドリゲスと出会った。これこそが運命の出会いであった。ロドリゲスに感化されたシモンは政治に関心を持つようになったとされる。また、この頃はナポレオンに仕えていて、戴冠式に出席したことが、後に大きな影響を与えることになった。


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独立戦争

1806年にベネズエラで独立戦争が起こった。2年後にナポレオンがスペインに侵入したことで、革命運動が活発化してシモンは反王政派に加わる。1810年には独立運動が本格化、シモンはイギリスに革命の援助を求めて派遣されることになった。武器の支援などを求めたようだが、シモンに説得材料が少なかったので断れてしまう。それでも、シモンにとってはイギリスの政治制度を学ぶいい機会になったようだ。翌年に、ベネズエラで独立宣言を行ったことで、独立戦争が始まった。ところが仲間の裏切りや、大地震が起こったことで、スペイン軍に敗北した。

独立運動に感化された各地の市民達はシモンを解放者と呼び支援するようになり、シモンは巻き返すようになるが、本国のスペインでは独立運動が集結したことで植民地に兵を集める余力ができてしまいシモンは劣勢を強いられる。さらには独立派による内戦によって戦争は混沌化、シモンもジャマイカに亡命することになった。

 

ボヤカの戦い

 

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ジャマイカに亡命したシモンはイギリスの政治システムを参考したジャマイカ書簡を執筆して、イギリスに援助を求めたが、上手くはいかなかった。そこでシモンは、黒人奴隷の解放を各地で宣言した。これで黒人を軍に招き入れることに成功して、再びスペインとの戦闘を開始した。イギリスから正式に援助を受けることはなかったが、スペインとイギリスが不仲だったのでイギリス人が軍に加わった。地元のカウボーイなどの全く共通点のないゲリラ部隊を結成したシモンは、雨風や寒気など厳しい気候でも、あえて進軍することでスペイン軍の裏をかくことに成功して奇跡的な勝利をおさめた。このボヤカでの戦いが決定的になり、シモンは大統領兼軍指揮官となり、ベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルを合わせた地域をコロンビア共和国とした。そして休戦が終わった後に再びスペインを倒して大コロンビアの誕生、そして、シモンは初代コロンビア大統領となった。

 

独立戦争の終結

チリ独立に成功したサル・マルティンは続いて、ペルーの独立を宣言するがスペインとの攻防戦で苦戦をしていたので、シモンに協力を仰いだ。シモンはこれを承諾して、グアヤキル会談に参加した。ただ、ここで二人は意見が合わないことがわかった。サル・マルティンは王政を導入することを考えていたが、ナポレオンが戴冠したことで失敗したと考えていたシモンは受け入れられない。これにより、サル・マルティンは母国であるアルゼンチンに帰国してしまい、そのまま隠居、シモンは一人でペルーを攻略することになった。シモンは病で戦線を離脱することになるが、スペイン軍を破りペルーの大統領も兼任することになった。さらにアルト・ペルーも解放して、ボリバルの名にちなんで、ボリビアとなり、シモンは大コロンビア、ペルー、ボリビアの三ヶ国で大統領となったが、ボリビアでの大統領は名誉職に過ぎなかったので、後任に譲った。こうして南アメリカ大陸の全てのスペイン領は解放された。

 

ラテンアメリカ統一を目指す

 

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シモンはラテンアメリカ統一を目指して大コロンビアのパナマで会議が行われた。これをパナマ会議と呼ぶ。この会議では、これ以上の戦争、奴隷貿易の禁止のルールを決めるもので、大コロンビア、ペルー、中央アメリカ連邦、メキシコが参加した。オブサーバーとしてイギリス、オランダも参加した。しかし、ブラジル、アルゼンチン、チリはシモンの影響力が強くなることを恐れて参加しなかった。

 

内乱に突入、そして死

大コロンビアが誕生したが、国の実情は最悪であった。ペルー、ボリビアの解放戦争で国内の経済は圧迫されてしまい財政は厳しかったのだ。シモンは中央集権、カトリック教会、大統領は終身制が望ましいと考えていたが、別の人物は地方分権、宗教の自由、大統領は任期制と考えた。考えの食い違いから国は分裂してしまい、内戦に突入してしまった。また、シモンは暗殺されそうになるなど、命の危機に直面する場面も増えたこと、さらには持病の悪化もあり、自身の政治的な役割の終焉を考えるようになった。そして、1830年に全ての地位を放棄して、ヨーロッパに向かうことにした。しかし持病の腸チフスが悪化したことでヨーロッパ行きを断念して、スペイン人の在宅で亡くなったそうだ(暗殺説もあり)。シモンの死後、後任の独裁も終焉して、大コロンビアは瓦解した。大陸随一の資産家であったボリバル家も、シモンが独立戦争で財産を使い切ったことで没落することになった。

 

最後に

現地では今でもボリバルにちなんだ名前が多く残っています。それだけ南アメリカでは英雄としての衝撃が強い人物でした。

 

最愛の人が亡くなったことで、自身の全てを独立戦争に捧げる覚悟が決まったと思うとめっちゃかっこいいと思う。実際どうだか分かりませんが、とにかく熱い精神を持った人物だったと思います。

 

 

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 リベレイター 南米一の英雄 シモン・ボリバル

 

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