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みんなの憧れだった有名な花魁、太夫8選

 

遊女は体を男性に売ることで商売にしていましたが、そのトップである花魁や太夫は少しだけ違う。優れた容姿はもちろんだが、教養、品格、芸能、全てに秀でていて、一般庶民では相手にもされない存在だった。また、若者の憧れのような側面もあって、ファッションを真似された記録もある。現代で言うところ芸能人と捉えることもできるだろう。今回は有名な花魁、太夫を紹介していこうと思います。

 

 

 

 

 

そもそも花魁、太夫とは?

 

花魁が高級娼婦で、太夫が最高級の芸者。のような枠組みだったようです。どちらも最高級の遊女であり、庶民では相手にされない存在だった。江戸時代となり遊郭が創設されると、太夫が生まれた。江戸中期になると太夫を相手にできる客層がなくなり、花魁が生まれたようです。明治に入ると時代の流れから花魁が衰退するようになり、芸妓として太夫が残った現代にまで存在することになった。時代によって言い方や、仕事の内容が少しだけ違うと思われる。

 

 

仙台高尾

 

 

 

2代目「高尾太夫」を襲名した。高尾太夫は最高の花魁のみが、名乗ることを許される特権である。なので、容姿が優れているだけでは名乗ることはできない。仙台高尾は、和歌なども堪能で、才女であった。また彼女は、義理堅い性格で、お金を積むだけしか能がない、汚い遊びをする客を拒んだ。

 

そんな彼女は、仙台藩主であった伊達綱宗に見染められた。決して悪い話ではないのですが、仙台高尾は身請けの話を断るのです。実は彼女に将来を約束した相手がいて、年季が明けてから一緒になるつもりだったのだ。

 

しかし、伊達綱吉は執拗に口説いてくるので、4000両。現代価値で5億の身請け金が払えるならと身請けすると提案した。さすがに断ると思っていたが、伊達綱吉は本気だったようで、条件を飲んだ。仙台高尾は身請けすることになるが、恋人を忘れることができないので、伊達綱宗に指一本ですら触れることを拒んだ。

 

これに堪忍袋を切らした綱宗は、仙台高尾を幽閉して一日一本指を切断すると、恫喝した。それでも仙台高尾は触れられることを拒んだので、逆さに吊るされて、斬殺された。

 

薄雲太夫

 

 

招き猫の由来となった猫好きの太夫。薄雲太夫も歴代で3人しか襲名することができなかった名前。薄雲太夫も客から憧憬される存在だったことは間違いない。

 

そんな客達のライバルは男達ではなく、猫だったりする。「玉」と名付けた三毛猫と常に一緒にいて、かなり溺愛していたのだ。優先順位は客より猫。玉に嫉妬して猫になりたいと切実に願う客も現れた。とは言えどんな事柄にも限度だったり、節度がある。いつの間にか、薄雲太夫は猫に取り憑かれているのではないかと。噂が広まった。

 

心配した主人が、猫を手放すように促しますが、拒否します。玉も薄雲太夫から離れることは絶対にありませんでした。最終的には厠にまでついてく玉を恐れて、主人が短刀で首を落としてしまった。

 

そして奇跡が起こる。猫の首は飛んでいき、厠の近くに隠れていた蛇を噛み殺したのだ。猫は死んでも、飼い主である薄雲太夫を守った。大切な家族を失った薄雲太夫を励まそうと、客が猫の置き物を贈ったと言う。これが招き猫の元になったようだ。

 

吉野太夫

 

 

吉野太夫も襲名されてきた名前で、最も有名な人物が2代目である。僅か14歳で太夫となった。スッピンでも最も美しいとされて、琴、和歌、書道、茶道など、遊女として完璧な太夫と言われた。

 

慈悲深い女性であることでも知られる。刀鍛冶の弟子が吉野と一晩を願って、苦労して多額の金を集めた。だが身分の問題で門前払いを喰らったと言う。話を聞いた吉野は密かに刀鍛冶の弟子を招待して、一晩過ごした。

 

この逸話が広まると、吉野太夫は慈悲深い女性と評価されることになる。26歳で身請けすることが決まった。相手は皇族の血筋と、財政界の大物。金の力で財政界の大物に身請けした。

 

吉野は正妻となり幸福になったが、お金の恐ろしさも知ったと言う。太夫だった時代の派手な生活を捨てて、質素に暮らすことを心がけた。嫁ぎ先の親族からも評判が良かったようだ。

 

榊原高尾

 

 

6代目高尾太夫。花魁から唯一にして大名の側室になった。元は花屋の娘で父の仕事を手伝っていた。その美貌は当時から有名であったと言う。

 

町中の男が花屋の看板娘を目的に、連日にように花を買いに来た。だが父親が倒れると、身売りすることになってしまう。元よりその美貌で有名だったので、たちまち人気となり榊原高尾を襲名した。

 

その間に父は回復して、再びに花屋を営むが、娘がいない花屋は廃業することになった。姫路藩の藩主である榊原の元に身請けすることになった。

 

だが時代は徳川吉宗によって、幕府や一般人も含めて贅沢を禁止する「質素倹約」の時代だったので、女遊びや身請けなどの贅沢が問題となり榊原は隠居することになった。榊原高尾も榊原についていくことになり、質素な生活をした。榊原は36歳と言う若さで亡くなり、高尾は江戸に戻って、68歳まで生きた。

 

小紫太夫

 

 

小紫太夫は悲劇の花魁として知られています。和歌が得意だったので、紫式部から名前を文字って、小紫太夫となったみたいです。優雅で、美しい容姿は江戸でも評判の高い女性になったようです。

 

小紫太夫の花魁道中には多くの人が集まった。小柴太夫には愛する人がいた。名前を平井権八と言う。平井は鳥取の藩士でとある理由で江戸に逃亡していた。小紫の美貌に心を奪われた平井だったが、次第に金銭に困窮して、人斬りをするようになる。

 

実は平井が江戸に逃亡したのも、人を殺害していたからなのだ。130人の被害者を出した平井は、追い詰められるようになり、最後には自ら出頭することを選んだことで、平井は処刑されてしまう。小紫太夫は身請けの話を頂いて、次の人生を歩むことになった。

 

しかし、身請けする日に、平井の墓の前で自らの命を絶った。

 

 

勝山

 

 

勝山はファッションリーダー的な存在だった花魁だ。元は風呂屋で働く湯女であった。この時から特異な髪型をして、派手な服を好んで着用、大小の刀を腰に巻いていた。この独特のスタイルを若い女性が真似をしていたようだ。どれほどに人気でも、吉原以外での売春は御法度である。勝山は逮捕されて、吉原で働くことになった。元々人気であった勝山は、最高クラスである「太夫」にまで上り詰めた。

 

紺屋高尾

 

 

5代目高尾太夫を襲名した紺屋高尾は古典落語の主役にもなった人物だ。とある染め物職人の男がいました。彼はとても真面目で毎日を一生懸命働いていたそうです。ところが体調を崩して、三日も寝込むようになった。

 

心配した親方が医者に見せたところ、なんと恋の病にかかっていたことがわかりました。しかも相手は、高尾太夫です。ただの職人では相手にされません。なんでも友人に連れられて、花魁道中を見学して一目惚れをしたと言うのです。話を聞いた医者は遊び慣れていたので、10両あれば会うことは可能であると教えてくれました。

 

しかし、一介の染め職人にとっての10両は3年間働いてやっと稼げる額でした。3年が経過して、ついに高尾太夫に会える機会を得ました。それは初会と呼ばれる顔合わせで、二回目以降の機会は太夫から誘われなければ会うことができない。

 

染め屋の男は高尾太夫から機会を与えられることになりますが、正直に自分の身分と、次に会えるのは3年後になってしまうことを話しました。すると太夫は「3年も私を想い続けてくれるなんて。年季が近いので是非あなたの女房になりたい」と話した。所詮は遊女の言葉だ。染め屋の男は大変喜んで今まで以上に仕事に専念するが、周囲の人間に遊ばれたんだと、哀れんだ。約束の日になると本当に高尾太夫が嫁入りにやってきたのだ。二人は結婚することになった。

 

地獄太夫

 

 

室町時代の伝説的な遊女。地獄を描いた羽織に、念仏を唱えながら客をもてなした奇妙な遊女だったとされる。元は武家の娘だったが、山賊に襲われて拐わられてしまい。綺麗な容姿だったので、そのまま売られた。

 

このような辛い経験をから、前世の自分は悪い人間だったと考えて、自ら地獄太夫と名乗ることにしたようだ。

 

この地獄太夫はあの一休と師弟関係にあった。一休は僧ではあったが、肉は食うし、酒も女遊びも嗜む反骨精神を持っていた。地獄太夫の噂を聞いて会いに来たという。一休は噂通りの美貌であると口説きます。地獄太夫は見に来たものは地獄に落ちる。つまりみんなが虜になるから気をつけなさいと言った。

 

この肝が座った態度に一休は惚れ込み、二人は師弟になるくらいの良好な関係を築いたのでした。地獄太夫が亡くなると一休は手厚く葬った。