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『ラプラプ』マゼランの世界一周最大の壁。フィリピンの国民的英雄について

 

 

1519年にフェルディナンド ・マゼランはスペイン艦隊を引き連れて、航海の旅に出た。しかし、1521年に、志し半ばでマゼランは戦死することになります。異国の脅威に逆らい勇気を持って強敵に立ち向かったのは、フィリピンの王であるラプラプでした。今回はフィリピンの英雄ラプラプを紹介していきます。

 

 

 

ラプラプとは何者なのか

ラプラプは16世紀に実在したフィリピンのマクタン島の王です。

実はラプラプについての記録はあまり残っていないそうです。1491年に生まれた説があるそうですが、名前の読み方も色々と説がある。ここではラプラプで統一します。記録は少ないですが、ラプラプはフィリンピンの最初の英雄に数えらえるくらいに、有名な英雄であり、2017年に大統領によって4月27日をラプラプデーとして祝日になった。フィリピンの硬貨にはラプラプの横顔が選ばれるなど、現地でのラプラプの知名度は高いと思われます。

 

来航

 

マゼラン一行がフィリピンに入港したのは1521年の3月です。まずは無人島に到着したマゼランでしたが、翌日には隣の島民と接触して、フィリピンは王の元で秩序を守って暮らしている。つまり物分かりがいい人々であると評価しました。各地の王と接触したマゼランは大砲によって武力の差を見せ付けることで、布教活動を盛んに行った。特にセブ島のセブ王とはかなり親しくなったことで、セブ島を中心に布教活動を行うことになる。しかし、ここで大きな問題が起こった。周辺の王国にもキリスト教を普及していくが、改宗した民族に対してゼフ王への服従を誓わせたのだ。マゼランがフィリピンの内情、特に政治的な介入が大きな引き金になっていく。

 

ラプラプの登場

 

セブ島に三週間滞在した結果として、マゼランは本来の目的であった香料諸島に向かうことなく布教活動を続けた。火縄銃や大砲をチラつかせて、過激に布教を続けていく。時には町を焼きつくしたことあったと言う。ゼフ島の殆どの民族が改宗を認めるなかで、唯一反感をしたのがラプラプだった。これに憤りを感じたマゼランは兵を送り込んだ。

 

マゼラン艦隊の記録係であるアントニオは決戦前夜にラプラプを説得しようと試みた。甲冑を着用した60人の兵士を連れて行ったが、ラプラプ達は竹槍を持って戦意があることを示したと言う。甲冑に重火器を持つ近未来的な敵に対して、先住民であるラプラプ達は竹槍。勝敗はする前からハッキリしているのではないかと思われるが。

 

マクタンの戦い

 

ラプラプは島の地理と潮汐を完全に理解していた。兵数の1500人とマゼラン部隊は改宗した原住民を含めて多くて500人くらい。まずラプラプが選んだ決戦地は岩礁が多く船を近づけることができなかった。これによって砲撃による恩恵を受けることができなかったが、マゼラン部隊は船を守護する隊を除いて海に入った。ラプラプ達はマゼラン達を見つけると遠方から矢の攻撃を開始する。

 

マゼラン達は太腿まで浸かる海上から銃を放つが遠すぎて、当たらない。重装備のお陰で矢の雨から身を守ることはできた。マゼラン軍は原住民の家を燃やすなど、火力を見せつけるが、これに逆にラプラプ達を怒らせることになり、両者は白兵戦に突入する。多勢に無勢。マゼラン軍はあっという間に鎮圧させられた。マゼランは毒矢を浴びた挙句に、指揮官であるマゼランがとにかく狙われることになったようだ。マゼランを守ろうとしたスペイン兵も殺害されることになった。応援を要請していた現地民は遠くから見ていただけだったと言う。リーダーを失ったマゼラン軍は退却を余儀なくされた。

 

伝説ではラプラプとマゼランは一騎討ちを演じたと言われているが、これはあくまでも伝説である。

 

マゼラン軍は敗北することになり、セブ島に帰還するが多くが毒殺されることになり、残ったマゼラン軍は急いで出航して世界一周の旅に戻った。

 

ラプラプはアジア勢で初めてヨーロッパ勢に対抗した英雄として語り継がれことになった。