デイビー・クロケットと呼ばれる兵器がある。冷戦時代にアメリカが開発した兵器で、モジュール化された核兵器の一つであった。構造上の都合で命中率は悪かったが、射程距離や威力は十分なものであったとされる。今回は兵器の名前にもなったデイビー・クロケットを紹介していく。彼は政治家で軍人でもあり、戦死したことでフォークヒーローとして、民間伝説と語り継がれる事になる。
生涯
少年期
デイビー・クロケットは1786年にフランクリン国のグリーンコロニーで生まれました。フランクリン国はアメリカ独立戦争後に建国されましたが、4年後にはアメリカへの加入を正式に認められることなく消滅した幻の国です。デイビーは9人兄弟の5子として生まれましたが、かなり困窮した生活を強いられていた。デイビーはクロケット家の借金返済のために、無償で働くことを強いられた。借金を返済して学校に通えるようになりますが、父と仲違いして、家を出ていくことに、帽子屋や酒場など色んな職を転々とした。
青年期
デイビーは1805年に結婚をして複数の子供にも恵まれた。1813年にデイビー・クロケットは後の大統領であるアンドリュー・ジャクソンの元で、先住民の討伐に参加した。このインディアン戦争はクリーク戦争と呼ばれて、勝利へと導いたアンドリュー・ジャクソンは白人社会での名声を得ることになる。当のデイビー・クロケットは戦いに参加することよりも、兵士のために野生の動物を狩って食糧を調達する方が自身に向いていると考えていた。
政治家に転身する
帰国したデイビー・クロケットは1826年に合衆国元老院に当選した。この頃にデイビーには逸話がある。演説をしたデイビーは自分がいかに優秀で素晴らしい人間であるかを熱弁した。すると「そんなに素晴らしいなら酒場でラム酒を奢ってくれよ」と言われた。デイビーは仕方なく群衆を引き連れて酒場に連れて行ったが、お金は一銭もなかった。亭主に今度お金を払うから、上等なラム酒をみんなに奢ってくれと懇願するが、当たり前に断れた。そこでデイビーはみんなを待たせて、得意の射撃でアライグマを毛皮を持ってきたという。上等な毛皮だったので亭主は喜んで、ラム酒と交換したとか。多分、誇張した話でしょう。民衆が素晴らしさを認めてくれたおかげで、デイビーは見事に当選することができたのでした。政治家になってからのデイビー・クロケットは、雄弁な話術を駆使して、貧しい民衆が住みやすい社会を目指すことを約束した。この頃にかつての上司であったアンドリュー・ジャクソンは国会議員となり、大統領にもなるが、クロケットは彼の政策に真っ向から反対して、政敵となる。アンドリュー・ジャクソンの考えは「インディアン強制的な移住」だからだ。デイビー・クロケットは貧困や先住民など常に弱者の立場でのものさしを持っていたからこそ、アメリカで民衆の英雄としてとてつもない人気を誇ったのだろう。
処刑される
選挙に敗れたデイビー・クロケットはメキシコに渡る決断をする。元老院時代に仲良くなったサミュエル・ヒューストンの影響だ。サミュエルはテキサス革命の指導者となり、後にテキサス共和国の初代大統領となる男だった。デイビーはテキサス革命に参加する意思を見せて、アラモの守備を任される事になるが、デイビー・クロケットは処刑される運命であった。援軍の到着が遅れたことなど不運が重なり、デイビーはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられて、1836年に斬首された。とされているが事実はわからないようです。メキシコ軍の猛撃に守備軍の全員が戦死して、死体はすぐに山積みにされて埋葬されたからです。処刑されたと言うのは英雄として不動の人気を得ていたデイビー・クロケットへの情けだった。つまり英雄らしい壮絶なドラマを民衆が欲していたことが理由とされています。
デイビー・クロケットは型破りな革命家として現代でも根強い人気を誇ります。毛皮で作られた帽子を好んで被っていたことから、「クロケット帽」と呼ばれるようになった。