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【ンジンガ】女性差別と戦いながらも「英雄」として名を馳せた女王

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さて、今回はアフリカの女王で「民族英雄」とされるンジンガをご紹介していこうと思います。ぜんぜん関係ありませんが、「ん」で始める人名に僕自身が、違和感を感じています。ンジンガは今よりもずっと男女差別が激しい時代に生まれたことで、兄に憎まれ、女性だからと即位に反対されたり、敵大国のポルトガルからは、「異常な性癖を持つ化物」として記録が残ることになります。例えば、子供を食べていた、600人の村人を殺害して石臼で引いた、血が好きだったとか、残忍がエピソードが多く残っているようですが、これらに「異常な性癖」に関しては恐らくポルトガル側の嘘だと思います(一部真実もありますが)。いきなり嘘が続いてますが、確かなことはンジンガが、逆境でも諦めることなく大国と戦い続けたことで「英雄」と称されることになったことです。

 

まあまあ、興味を持った人もいると思いたいので、このままンジンガの生涯を簡単に説明していきたと思います、どうぞ、よろしくお願いします。

 

 

生まれ

 

ンジンガは、1582年にアンゴラに存在していたンドンゴ王国の王の娘として誕生した。アンゴラの地では1570年頃から黒人奴隷を求めるポルトガルによる侵略に悩まされていた。その影響はンドンゴ王国にもあった。ポルトガル人との外交を有利に進めるためにも、言語と文化を勉強する必要があり、ポルトガル人の宣教師を捕虜にすると、家庭教師として子供達につかせてポルトガル語を勉強させた。

 

ンジンガは兄弟を差し置いて才能を開花したことで、王は娘を後継者として教育する方向を示しめすことになる。狩猟や言語など、兄達を寄せ付けない才覚を発揮して、ヨーロッパ式の戦争術も学んだと言う。

 

兄からの仕打ち

 

父が亡くなると跡を継いだのはダメな兄ムバンディだった。ムバンディは臆病でありながら傲慢な人間で王の器ではなかった。それでも彼が王になれたのは、ンジンガが女性だったからだ。1621年にムバンディはポルトガルとの決戦で、伝統的な会戦で挑もうとした。ヨーロッパの戦争術を学んでいたンジンガは、「上半身が肌同然の兵では、国が敗北することになる」と意見をいいます。ヨーロッパは「銃」が主流となる戦法である時代に、石器時代のような戦いをして勝てるわけはありません。間違いなんてない当たり前の意見でしたが、ムバンディは激怒してンジンガの一人息子を殺して、彼女の子宮を焼くことで子供ができない体にしてしまった。

 

戦争はンジンガの予想通り敗北に次ぐ敗北で、ムバンディはポルトガル語を知るンジンガに協力を仰ぎ、和平交渉を進めることを嘆願した。1622年にンジンガは「国の為に」と、外交官としてポルトガル人の元へと旅立つことになった。

 

能力を発揮

 

ンジンガは大勢の部下を引き連れてポルトガル人が拠点としていたルワンダに向かった。ポルトガル人はンジンガ達を持てなすつもりはなかったようで、大砲を撃って威嚇したそうだ。ンジンガの一族では男は椅子に座るものだが、身分の低いものや女性は床に座る風習をポルトガル側は知っていたので、敢えて椅子を用意しなかった。侮辱されていること、試されていることを悟ったンジンガは召使いの女性をかがませて椅子にした。

 

ンジンガは交渉中も決して臆さない立派な態度で勤めて、交渉の終わりには、「二度と同じ椅子に座らない」として椅子にした女性を殺したそうだ。これにはポルトガル人も恐怖で震え上がった。その後も、キリスト教に改宗するなどを行い、ポルトガル人との好意を示すことで、1623年には和平交渉が成立した。

 

女王となる

 

1624年には兄が亡くなり、その息子も立て続けに亡くなったことで、ンジンガは女王として君臨することになった。女王となったンジンガはポルトガルとの条約をなかったことにして、奴隷開放を進めた。ンドンゴでは女性が王になることに反対する声もあったが、奴隷から開放された人達は次々とンジンガに従う形となる。ところがポルトガル側と、ンジンガの即位を反対する者達が手を組んだことで、1629年には国外に逃亡することになってしまった。

 

挫折かと思いきや、ポルトガルによって崩壊されたマタンバ王国を再興することで、ンジンガは女王としての権力を取り戻す。ポルトガルの奴隷商人に攻撃を仕掛けて、奴隷の一部はヨーロッパに売りながら、手元に残すことで軍団を結成した。1635年には周辺諸国との同盟することで、ポルトガル人を追い出すことにも成功した。1641年にはポルトガルと対立してオランダと提携を結ぶことで、マタンバを近隣最大国家にまて成長させた。

 

その後

 

1640年頃にはンジンガは「男になる」ことを宣言した。たくさんの愛人を囲い、女装させて過ごさせたそうだ。愛人達は、侍女達共に暮らすことを強要して、もし肉体関係を持ったら処刑させるなんて環境だった。ンジンガは常に性交を目的にした30人以上の奴隷を保有していたようで、事が済んだら殺していたらしい。また、政府の高位や、軍人などに多くの女性を登用していた。これは自身がジェンダーに悩んだからでしょう。友好な関係であったオランダが去ることになると、再びポルトガル勢力が猛威を振るうことになる。成熟した女王ンジンガはポルトガルと対等の条約を結び、平和が続いたと言う。1663年にンジンガは亡くなることになる。彼女の死後にアンゴラはポルトガルによって植民地化されることになりますが、ンジンガは英雄として今日まで語り継がれることになります。