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【カテリーナ・スフォルツア】愛と戦に生きたイタリアが誇る伝説の女傑について

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カテリーナ・スフォルツアはイタリアが誇る伝説的な女傑である。スフォルツア家は傭兵から公爵の身分にまでなった一族で、カテリーナも幼少から兵法を叩き込まれることになり、戦の要性に気づいていた。領主になってからも、兵の質、城壁の強化、武器の購入にお金を使い、実際に戦うことになると自ら兵を率いて並みいる強敵を倒した実績もある。これらの功績から、イタリアの女傑として名前が知れ渡ることになった。

 

ところが彼女の人生の終わりは、あんまりいい終わりとは言い難い。今回はそんなカテリーナ・スフォルツアの人生に迫ってみたいと思います。

 

 

幼少

 

カテリーナ・スフォルツアは1463年にミラノで生まれました。スフォルツア家は傭兵から公爵の位にまで登りつめた血生臭い家系で、庶子として生まれたカテリーナも父から兵法を叩き込まれた。父から英才教育を受けたカテリーナは、高い教養を持った女性に成長することになる。

 

母であるルクレーツィア・ランドリアーニは、画家でピエロ・デル・ポッライオーロのよって描かれた肖像画で有名だったりする。

 

結婚

 

1474年には11歳で教皇の甥であるリアーリオ家のジローロモとの結婚が決まり、14歳で正式に嫁ぐことになった。夫とは親子ほど歳が離れていましたが、関係を良好で子供にも恵まれ、彼女にとってローマでの暮らしは悪いものではなかった。元々高い教養を持ち、母譲りの美貌を持っていたカテリーナは、ローマ社交界でも有名となり、大人になっていくに連れてより洗練されていくことになる。

 

ただ夫に少し問題があった。ジローラモはイーモラとフォルリの領主であったが、教皇の甥と言う立場を活用して好き勝手に振る舞う悪人だったのだ。権力にものを言わせて、賄賂を取り放題、愛人もたくさん。また。何人も政敵を暗殺して、自身の権力を保っていたのだ。

 

崩壊

 

1484年に教皇が亡くなると、ローマで反乱が起こることになる。後ろ盾をなくしたジローラモは民衆からの怒りの矛先となり、住居に暴徒が押し入り、略奪と破壊がされた。ここで凄いのがカテリーナである。事前に暴動を察知していたカテリーナは、妊娠中にも関わらず、自ら兵を率いて城を占拠して、この城を拠点としてヴァチカンを死守した。この間にジローラモは裏方に周り和平交渉を進めて、なんとか領土や地位を守った。

 

再び、領主に返り咲いたジローラモでしたが、圧政は変わらなかったので、領民から不安が相次いだ。その結果、1488年には、自身の部下によってジローラモは暗殺された。その殺害方法もかなり過激で、裸で窓から吊るされて反逆者が八つ裂きにしたそうです。そうとうの嫌われっぷり。この反乱で捕らえられたカテリーナは、自ら兵士達に降伏するように説得するから、解放してくれと申し出た。拘束を解かれたカテリーナは城内に一人で戻ったが、いつまで経っても帰ってこない。痺れを切らした反乱軍は城壁に向かって、人質である子供達を殺すと脅した。すると、カテリーナは城館の屋上に立ってスカートを捲り上げて「子供なんてここからいくらでも出てくる」と叫んだのだ。これに呆気に取られた反乱軍は、何をできなかったとか。その間にカテリーナが準備していた援軍が到着して、反乱軍を鎮圧させることに成功した。実は全てカテリーナの作戦だったらしい。援軍を準備していたカテリーナは、城内で立て籠もることを兵士達に事前に指示していたのだ。

 

史実かどうかはわからないが、この一件でカテリーナ・スフォルツアはイタリアだけではなく他国からもイタリアの女傑として名が知れ渡ることになる。

 

二度目の結婚

 

夫に反逆者した者達を夫と同じように裸にしてから、窓から吊るして遺体を八つ裂きにしたとか。復讐を果たしたカテリーナは、幼い長男を領主として自身が摂政を行なうようになった。それでスフォルツア家の女性として育ったカテリーナは兵の質の向上にも力を入れて、城壁の建築や武器の購入にもお金を使った。

 

夫をなくしたカテリーナは新たな恋をすることになる。相手は8歳も年下であるジャコモ・フェオだ。身分の差もあって周囲からの反対も多かったが、カテリーナは強引に結婚して、彼との子供を授かった。ところが、ジャコモは重要な役割を与えられて権限を持つようになると、統治にまで口を出すようになった。これを危険視した重臣によってジャコモは暗殺された。カテリーナは再び暗殺に関わった者達に復讐をすることになる。家族や女、子供。処刑者は40人に及んだとされる。なかでも子供ですら拷問にかけたことで民衆からの信頼は地に落ちた。

 

三度目の結婚

 

1496年にフィレンツェ共和国の大使であるジョヴァンニ・デ・メディチがカテリーナに面会を求めてやってきた。ジョヴァンニはメディチ家でも美男子で有名だったようで、カテリーナは一目惚れしたそうだ。カテリーナの積極的なアプローチで二人は、すぐに結婚することになる。しかし、フィレンツェ大使と伯爵夫人では世間体が悪く、カテリーナの最初の夫ジローラモとメディチ家は互いに暗殺に関与していた疑いもあったので、結婚は極秘となった。二人の間の子供、と言うか子孫達は各国の王家に嫁ぐことになり、カテリーナ・スフォルツアの血はヨーロッパの王家に流れることになる。結婚の二年後に、ジョヴァンニは病気で亡くなることになる。

 

最大のピンチ

 

教皇アレクサンドル6世はルイ12世と同盟を結んで、教皇領の統一を画策していた。教皇軍はフランス軍と共にイタリアに侵攻してきた。1499年には教皇軍が、カテリーナが統治しているイーモラとフォルリにまで手が伸びた。教皇軍の大将はアレクサンドル6世の息子であるチェーザレ・ボルジアだ。もちろん、カテリーナは徹底抗戦に出た。チェーザレ・ボルジアも女領主の城なんて簡単に陥落させることができると思っていましたが、そんな簡単には落とすことはできず、チェーザレも感嘆するしかなかったそうです。ところが、領民からの信頼がなかったカテリーナは、領民からの裏切りに合ってしまい、これがキッカケで攻め落とされてしまった。カテリーナはローマに護送されて、幽閉生活を強いられることになった。

 

その後

 

1503年にアレクサンドル6世が急死したことで、チェーザレ・ボルジアも政敵によって投獄された。状況が変わったことでカテリーナは幽閉生活から解放されて、フィレンツェに逃がしていた子供達に再開することができました。カテリーナは子どもたちとフォルリの領主に返り咲くことを望みましたが、それは領民によって猛反対されたのだ。

 

1509年に46歳で重い肺炎となり亡くなった。そうとう憎まれていたカテリーナは、お墓も取り壊さえて、遺骨も行方不明となっているようです。

さいごに

 

女傑としては伝説的ですが、重税を課したことで領民から、愛に暴走したことで臣下から信頼を失うことになったカテリーナ・スフォルツア。もう少し冷静になって、理知的な行動ができたなら大成できたのではと思いました。