モナリザ。誰もが一度は聞いたことがある名画を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチは画家として有名です。
しかし、それが多才な才能を持つ天才の一面に過ぎないことはご存じでしょうか?
音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学。今回は多岐にわたる才能と、尽きることのない独創性を兼ね備えた万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチを簡単に紹介したいと思います。
人物像
「万能の天才」と呼ばれる人類史上もっとも多分野で才能を発揮した天才。画家としての顔が有名だが、ヘリコプターが開発される400年前にレオナルドは原理の考案していたとされる。また人体への興味も強く解剖してはスケッチをするなんてこともしていたそうです。(この行動は芸術理解のために、芸術家のあいだでよくあった話だそうです)
その天才ぶりから、レオナルド・ダ・ヴィンチは個人を指すのではなく、団体なのではと言う説が浮上されるほどでした。
幼少から青年
幼少から青年期のことは実はよくわかっていません。ただイタリア・トスカーナのヴィンチ村で生まれたそうです。レオナルド・ダ・ヴィンチが歴史上にはっきりと登場するのは、彼が14歳の時に芸術家のアンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りすることです。工房でレオナルドは才能を開花して、絵画、彫刻などの芸術に限らず設計分野、化学、金属加工、機械工学、木工、様々な分野で才知に長けた一面をみせた。
ちなみに師匠であるヴェロッキオはレオナルドの才能に嫉妬したのか、失望したのかわかりませんが、絵を描くことをやめたとされています。とんでもない才能ですね。
二十歳になった頃には、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得て仕事の幅を広げていきます。
失墜
24歳頃、レオナルドを含めた男性四人が、同姓愛の容疑をかけれます。最後には放免されますが、これをきっかけにレオナルドは表舞台から一時期姿を消します。実はレオナルド・ダ・ヴィンチは生涯を通じても女性との交友関係が非常に少なく、結婚もしていません。わりとガチで同姓愛者だったのでは…………
しばらく起つと「東方の三博士」の製作依頼を受けてレオナルドは再び表舞台に姿を表しますが、この仕事を途中で放棄してミラノへ行ってしまいます。「東方の三博士」は未完成のまま終わってしまいました。
ミラノを拠点に
30歳から40歳の間はミラノで過ごしたレオナルドはあの有名な作品「最後の晩餐」の製作をしています。また、騎馬像の製作を依頼されましたが、レオナルド自身に気が向かなかったのか製作開始までに数年かかりました。せっかく時間をかけて製作した騎馬像でしたが、材料として使われた17トンのブロンズを大砲の製作材料の流用されました。
軍の技術者として教皇の息子に雇われてした時期もあります。非常に高い設計技術をもったレオナルドは、都市計画の設計を任されますが、この設計図が天才らしいものでした。
真上からではなく斜め上から描かれた設計図で、とんでもなく正確なもので常軌を逸していました。
この頃にあの名画「モナリザ」を製作しています。
晩年
60歳ころになっても、教皇の和平会談に招かれたりと精力的に活動を続けていたレオナルド。「モナリザ」を買ったフランソワ一世に気に入られて、年金を出し貰ったり、それなりの暮らしを続けてしました。
1519年5月2日レオナルドは死去します。レオナルドはフランソワ一世の腕の中で息を引き取りました。レオナルドの終活を完璧だったとされており、葬儀、参列、誰が自分の遺体を運ぶのか詳細をしっかり決めていました。遺産も弟子や兄弟、使用人によって分配されました。
まとめ
万能の天才だったレオナルド・ダ・ヴィンチですが、じつは飽き性でほとんどの作品は未完成だったとされています。それは彼のもっとも逸脱した点が、アイデアの宝庫とも呼べる頭脳にあったからではと思います。レオナルドはメモをとにかくとっていたとされているのですが、その内容は当時の技術では実現不可能なものが多く、後世で実現された設計図、アイデアがほとんどでした。発見されているメモは五千枚を越えているとされ、紛失したものを合わせれば一万枚を越えるのではとされます。
とにかくレオナルド・ダ・ヴィンチは天才でした。(投げ槍)