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『源為朝』源氏の最強兵器。義経も恐れた最強の男

想像できるだろうか? 一本の矢で二人を撃ち殺す豪腕。船を沈める砲撃のような威力。平安時代の末期では源と平が覇権を争っていたのですが、その戦いの最中で源氏から最強の男が降臨していた。彼の名前は源為朝。あの源氏の英雄、源義経の叔父に当たる人物です。義経は為朝と同じ八男だったのですが、「叔父と同じは恐ろしい」と源九郎義経と名乗った。また戦場で弓を落としてまうと、義経は命を落とす覚悟で拾いに戻ったことがある。為朝が使っていた弓が超大型で五人がかりでないと扱えないものだから、それを敵方に奪われても誰も扱えないが、義経の弓は違う。誰にでも扱える弓なので、敵に拾われたら恥であると、語った。

 

このように、源為朝は最強の源氏として、親戚からも恐れられたのである。今回は源氏の最強の男をご紹介していこうと思います。

 

 

 

生涯

 

生まれ

 

1139年に源為義と遊女の母との間で生まれた。為義の八男にあたり、源義経、頼朝からすると叔父になる。子供頃から優れた体格を持っていて、かつ横暴で乱暴な性格だった。為義は武芸を習わせて性格を矯正できないかと、考えたがますます狼藉な態度を振る舞うようになる。成長した為朝は2メートルこす大男となった。当時の平均身長が150センチ程度であったことからも、その逸脱ぶりがわかるだろう。しかも京で喧嘩三昧。耐えかねた為義は為朝を13歳にして勘当して、九州に追放してしまった。

 

九州

九州では婿となったりと居場所を確保した後に、追捕使と呼ばれる警察を名乗って有力な豪族と戦争をくり返した。幾度も合戦と城攻め。為朝は2メートルを越す大柄であることは先述したが、左腕は右腕よりも長く、弓を引く上で大変有利であった。特注の弓矢は規格外の大きさで、五人でやっと扱えるものを一人で使用していたことになる。矢の威力は鎧をいとも簡単に貫通、船に撃てば大穴を開けて沈没させた。本人の強さを相まって、僅か三年で九州を制覇してしまった。しかも無敗であったという。しかも中学生だ。

 

上洛

九州で暴れまわった為朝でしたが、朝廷から出頭命令が下る事になるが、これを無視した。それで父である為義が責任を取る事になり解雇された。ここでようやく為朝は、九州の強者28騎を連れて上洛した。

 

翌年には崇徳上皇と後白河天皇が覇権を巡って対立して、今にも戦争に発展するところであった。父である為義は崇徳上皇の命令で大将として招かれていた。老齢を理由に断っていたが出陣する事になる。為朝も父のために戦争に参加した。

 

為朝は夜襲を仕掛ける事を提案するが、上皇と天皇の戦いでそんな卑怯なことができるかと却下されてしまう。がこの判断が勝敗をつけてしまう。敵軍によって夜襲を仕掛けられたのだ。

 

西門を守護していた為朝に攻めてきたのは、平清盛。為朝の規格外の弓矢を恐れた清盛はたちまち退却した。清盛の息子は恥であると挑もうとするが、清盛は全力で止めたという。

 

清盛退却後に攻めてきたのは、兄である源義朝。頼朝や義経の父である。為朝の九州の28精鋭と、義朝が率いる坂東武者200の乱戦は互角の戦いであった。為朝が矢を放つと、義朝は「兄に矢を向けるとは罰当たりな」と言うと、「そちらも父に弓を引いているではないか」と兄弟で言い争った。この戦いで九州の精鋭は23人も失う事になり、義朝側は50人を失った。火攻めをされたこともあって為朝は撤退。戦争も大敗北となり、父と共に捕虜となった。父である為義は斬首、為朝は強さを買われたこともあり、腕の腱を切って自慢の弓矢を引けなくして、伊豆大島に流刑された。

 

伊豆での活躍

流刑された為朝であったが、切られた腱は一ヶ月で回復して、再び弓を引けるようになった。しかもまだ17歳であったので、体もさらに大きくなったとされる。九州の時のように暴れ回った為朝は、伊豆の代官の婿となり、実質的に伊豆を支配して、年貢を払わなかった。朝廷を恐れた代官が勝手に年貢を支払うと、為朝はブチ切れて、代官の指を三本も落としてしまった。10年後に朝廷は為朝の討伐を決意して、大軍で攻めてきた。流石の為朝も負け戦を覚悟して、まさ9歳であった息子を殺害。自害を試みるが、少し気が変わって、得意の矢を放って船を一隻沈没させた。その後に自害をするが、朝廷軍は為朝を恐れて上陸を拒んだ。

 

為朝は32歳でこの世を去った。