
「神は待つことを望んでいない!今すぐ行くべきだ!」
1096年、フランス北部の街で痩せた小男が叫んでいた。
修道士の粗末な服を着て、ロバに乗り、裸足で歩き回るこの男の演説に、農民が、職人が、貧しい騎士が、次々と吸い寄せられた。
武器はない。食料もない。地図すらない。
それでも4万人以上が立ち上がった。
「神が守ってくれる。それだけで十分だ」
今回は隠者ピエールの生涯を簡単に解説していこうと思う。十字軍という200年の戦争を語るとき、最初に登場するのはゴドフロワでも騎士でもなく、この裸足の修道士だ。
- 時代背景——教皇の演説が火をつけた
- 出自——ロバに乗った裸足の修道士
- 民衆4万人の行進
- ユダヤ人虐殺——信仰の暗部
- コンスタンティノープルへ
- ドラコンの戦い——壊滅
- 皮肉な生き残り
- エルサレムへ
- 最期
- まとめ
時代背景——教皇の演説が火をつけた
1095年、フランス中部クレルモンで教皇ウルバヌス2世が「聖地エルサレムを奪還せよ」と呼びかけた。
教皇が想定していたのは、翌年8月15日に諸侯と騎士たちが出発するという、きちんと計画された軍事遠征だった。
しかし、民衆は待てなかった。
「罪が赦される」「天国が約束される」という言葉は、貧しく苦しい日々を送る人々の心に火をつけた。
騎士でも諸侯でもない、普通の農民や職人や零落した下級騎士たちが「今すぐ行かなければ」と立ち上がった。
その熱狂の中心にいたのが隠者ピエールだった。
出自——ロバに乗った裸足の修道士
隠者ピエールの生年は不明だ。フランス北部のアミアン周辺で、修道士の服を着て隠遁生活を送っていた人物とされている。
「隠者」というのは名前ではなく、世間から離れた場所で禁欲的な生活を送る修道士のことを指す。
外見は印象的だった。
痩せた小柄な体に大きな顎髭。常に質素な服を着て裸足で歩き、ロバに乗って各地を回った。
受け取った喜捨はすべて貧しい人々に与えた。その清貧な姿が、人々の目には「神に選ばれた人物」として映った。
演説の才能が傑出していた。
クレルモンの演説の後、ピエールはフランスからフランドルにかけての広い地域を精力的に回り、「聖地が苦しんでいる。今すぐ救うべきだ。神は我々と共にある」と訴えた。
ピエールが主張したのは、キリスト本人が彼の前に現れて「十字軍を呼びかけよ」と命じたということだ。
この話の真偽はわからない。しかし信じた人が山のようにいた。
民衆4万人の行進
教皇の計画する正式な遠征が出発する数ヶ月前、ピエールは待てなかった。
「神の指示に従うのに、人間の都合を待つ必要はない」と言って、1096年4月に出発した。
集まったのは農民、職人、貧しい騎士、女性、老人、子供——社会の底辺に近い人々だった。きちんと武装した者は少なく、食料の備えもほとんどなかった。
5つの部隊に分かれた民衆十字軍の総数は最大4万人以上にのぼった。
行く先々で怪しげに見られた。騎士たちのように着飾れない粗末な身なりの大集団が押し寄せてくるのだから当然だ。
記録に残る笑えない逸話がある。行進を続けながら、民衆十字軍の者たちが通過する土地の住民に「ここはもうエルサレムなのか」と聞いて回ったというのだ。
地図を持っていない。エルサレムがどこにあるかも正確には知らない。それでも「神が連れて行ってくれる」と信じて歩き続けた。
ユダヤ人虐殺——信仰の暗部
ピエール率いる民衆十字軍は道中で深刻な問題を起こした。
ライン地方にはユダヤ人の共同体が多かった。土地を持たず、少数派として金貸しなどの役割を担うユダヤ人は、疲れ果てて熱狂する民衆十字軍の格好の標的になった。
「キリストを殺した異教徒をなぜ放置するのか」という論理で、虐殺が始まった。
ハンガリーでも略奪が発生した。聖地に向かうはずの「神の軍隊」が、通過する各地で破壊と略奪を繰り返した。
ピエール自身がどこまでこれを止めようとしたのか、記録は曖昧だ。
止められなかったのか、止めなかったのか。いずれにせよ、民衆十字軍は「余計なことだけを歴史に刻んだ集団」という汚名を後世に残すことになった。
コンスタンティノープルへ
5つの部隊のうちコンスタンティノープルにたどり着けたのは、ピエール率いる一行と「無一文のゴーティエ」率いる一行だけだった。
他の3隊は途中で壊滅したり離散したりした。
ビザンツ皇帝アレクシオス1世は突然大群衆が首都に押し寄せてきて困惑した。
食料の補給が追いつかず、飢えた民衆が市内で店を襲い始めた。
皇帝は一刻も早く彼らをヨーロッパ側から送り出す必要に迫られた。
ピエールに対して皇帝は警告した。「諸侯の本隊が来るまで待て。テュルク軍は精強だ。今すぐ渡るのは危険だ」と。
ピエールは警告を受け入れた。しかし民衆は待てなかった。
ドラコンの戦い——壊滅
ボスポラス海峡を渡ったとき、不吉な噂が流れた。「先行した別働隊がニカイアを陥落させて略奪を始めている」という話だ。
実はこれはセルジューク朝が流した偽情報だった。
民衆十字軍は興奮して先を争うようにニカイアへ向かって進軍を始めた。ピエールは補給要請のためコンスタンティノープルへ戻っていて、その場にいなかった。
ドラコンの村の近くにある木が生い茂る狭い谷間で、セルジューク朝の伏兵が待ち構えていた。
矢の一斉射撃が始まった。数分で総崩れになった。2万人の民衆十字軍のほとんどが殺されるか奴隷として売られた。「無一文のゴーティエ」も戦死した。
「神の助けで守られている」とピエールが言い続けた人々が、ほぼ全員殺された。
皮肉な生き残り
ピエール自身はコンスタンティノープルに戻っていたため、この壊滅的な戦いに巻き込まれなかった。
「最も楽観的だった人物が、最も長く生きた」と後世の歴史家は皮肉を込めて記している。
ピエールはわずかな生き残りととも
に冬の間コンスタンティノープルで過ごした。翌年、諸侯率いる正式な十字軍本隊が到着するとピエール一行も合流し、1097年5月にエルサレムへ向けて再出発した。
エルサレムへ
正式な十字軍に加わったピエールだったが、その役割は補助的なものだった。
民衆十字軍での権威は失われていなかった。武装していない庶民や負傷者、破産した騎士たちの間でピエールの人気は依然として高かった。
アンティオキア包囲戦では、士気が下がった軍勢に向かって説教を行い鼓舞した。
1099年7月、エルサレムが陥落した。
ピエールはエルサレムの城壁の周りを祈願しながら行進する人々を率いた。
そしてエルサレム攻落後のアスカロンの戦いの前にも、エルサレム城内で祈願を行ったとされている。
民衆4万人を率いて出発し、その大半を死なせながら、ピエール本人はエルサレムに入った。これがピエールの「成功」だったのか「失敗」だったのか、判断は難しい。
最期
エルサレム入城後の記録は曖昧だ。
1099年末にはレバノン西岸のラタキアにいたとされる。その後フランスに戻り、現在のベルギー南西部のユイ近郊にヌフムスティエ修道院を自ら設立した。
1115年にその修道院で亡くなったというのが最も有力な説だ。
65歳前後だった。
まとめ
隠者ピエールは英雄か、煽動者か。
評価は今も二つに割れている。「信仰の力で民衆を動かした指導者」と見る者もいれば、「武器も食料も計画もなく民衆を死地に送り込んだ扇動者」と見る者もいる。
ただ一つ確かなことがある。ウルバヌス2世の演説が火をつけ、隠者ピエールの熱狂がそれを爆発させた。
4万人以上の民衆が武器も持たずに聖地を目指したという出来事は、信仰というものが人間をどこまで動かせるかを示している。
裸足で歩き、ロバに乗り、「神は我々と共にある」と叫んだ小男が、200年の十字軍の物語の幕を開けた。