
「大スキピオの再来」
古代ローマ最高の名将と呼ばれたベリサリウスを歴史家エドワード・ギボンはそう評した。
ペルシアを退け、北アフリカを征服し、イタリアを奪還。少ない兵力で戦い続け、負け知らずの将軍と評価される。ユスティニアヌスの右腕として大いに活躍した。なんならユスティニアヌスの功績は間違いなくベリサリウスがあってのことだ。
それが、晩年には両目をえぐられ、乞食に落ちぶれたという伝説が残っている。その理由がもし皇帝の嫉妬だとしたらどうだろうか。
栄光と悲運。これほどその言葉が似合う人物もなかなかいない。今回はベリサリウスの生涯を簡単に解説していこうと思う。
ベリサリウスとは
ベリサリウスは東ローマ帝国に仕えた将軍である。
ユスティニアヌス1世のもとで活躍し、ササン朝ペルシアとの戦争、ヴァンダル王国征服、東ゴート戦争などで数々の戦功を挙げた。
失われた西ローマ帝国の領土を奪還した最大の功労者であり、東ローマ帝国史上最高の名将の一人として知られている。
時代背景
476年、西ローマ帝国が滅亡した。ゲルマン民族の侵攻によって、かつて地中海世界を支配したローマ帝国の西半分が消えた。残ったのは東ローマ帝国だけだ。
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はこう考えた。かつてのローマ帝国の領土を取り戻す。西ローマが支配していたアフリカも、イタリアも、全てを奪い返す。
無謀とも思える計画である。その無謀を可能した男こそが、ベリサリウスだ。
ベリサリウスは、約500年頃に生まれ、若くして軍人として頭角を現していた。ユスティニアヌスに見出され、東ローマ帝国最高の将軍へと上り詰めていく。ベリサリウスが特別だったのは、ただ単に戦が上手なだけではない。
彼は常に少数で大軍に勝ち星を重ねていたのだ。もはや天才の領域であり、異才であった。
後世の歴史家たちは、彼を「最後のローマ人」、あるいは「大スキピオの再来」と呼ぶことになる。
ペルシアとの戦い
ベリサリウスの名を世に知らしめた最初の戦いが、ダラの戦いだ。
相手はササン朝ペルシアである。当時の東ローマ帝国にとって最大の脅威であった。兵力はペルシアが5万、対するベリサリウスは2万5000。半分の兵力差である。
ベリサリウスは正面戦闘を避けて、塹壕を掘り、騎兵を両翼に配置し、敵が攻め込んできたところを包囲する陣形を組んだ。ペルシア軍は突撃してきたが、罠にはまって壊滅した。少ない兵力で大軍を破ることに適したこの戦い方こそが、ベリサリウスの基本的な戦術だった。
ニカの乱
コンスタンティノープルで大規模な暴動が起きた。ニカの乱と呼ばれるものだ。
発端は競馬場での騒動だった。当時の競馬は単なるスポーツではなく、政治的な思惑も絡む場でもあったのだ。青と緑という二つの派閥が激突し、やがて「ニカ(勝て)」と叫ぶ暴徒が街を焼き始めた。暴徒の数は3万にのぼり、ユスティニアヌスは逃げ出そうとした。
止めたのは皇后テオドラだった。「逃げるくらいなら死んだ方がまし」という言葉で皇帝を踏みとどまらせた。
鎮圧を命じられたベリサリウスの手元にあった兵はわずか3000だった。3000対3万。普通に考えれば、抑え込むのは、不可能であろう。だが、戦の異才であるベリサリウスは競馬場に暴徒を誘い込み、出口を封鎖して一斉に攻撃した。逃げ場を失った暴徒3万人はほぼ全滅した。
この一件でベリサリウスの名声は不動のものとなった。
北アフリカ征服
ユスティニアヌスはベリサリウスに北アフリカ遠征を命じた。目標はヴァンダル王国の陥落だ。
かつて西ローマ帝国の領土だった北アフリカを支配するゲルマン系の王国で、当時の王ゲリメルはそれなりの勢力を持っていた。
ベリサリウスの兵力は1万5000。対するヴァンダル王国の兵力は数万だった。
この遠征にはちょっとした逸話がある。航海中に水が尽きかけた。兵たちが苦しんでいたとき、ベリサリウスの妻アントニナが「船底に水の樽を隠してあります」と言い出した。
危機を事前に見越して密かに準備していたのだ。ベリサリウスはこれ以来妻に頭が上がらなくなったという。恐妻家として有名なベリサリウスだが、妻の先見の明は本物だった。
戦いはあっさり決まった。ベリサリウスはヴァンダル軍を二度の戦闘で撃破し、534年に北アフリカ全土を制圧に成功したのだ。
イタリア遠征
イタリア半島を支配していた東ゴート王国で政変が起きた。ユスティニアヌスはこれを口実にイタリア侵攻を命じる。
ベリサリウスは少数の手勢でシチリアを制圧。翌年には、ナポリを落とて、ローマに入城した。
ここから戦いは長期化する。東ゴート軍は新王ウィティギスを擁立し、ローマ奪還を目指した。
東ゴート軍は10万とも言われる大軍でローマを包囲する。対するベリサリウスの兵力はわずか数千だ。
普通なら絶望的な状況だった。それでもベリサリウスは城壁を修復し、夜襲を繰り返し、敵の補給線を攻撃していく。
さらに海路を確保して食糧を運び込み、1年以上に及ぶ包囲戦を耐え抜いた。
東ゴート軍は消耗し、ついに包囲をといたのだ。ついに東ゴート王ウィティギスを捕らえ、首都ラヴェンナを陥落させた。こうしてイタリアは東ローマ帝国の手に戻った。これはベリサリウス最大の功績であり、失われたローマ帝国を取り戻すというユスティニアヌスの夢が現実となった瞬間となった。
皇帝の嫉妬
ベリサリウスがあまりにも大きな功績を上げ続けたことで、ユスティニアヌスは嫉妬を抱くようになっていく。
今ではベリサリウスは、ローマ最大の英雄であり、民衆からの人気は絶大であった。戦争の勝利であるからには、必然的にも軍人からも絶大な信頼と影響力もある。
かつてのローマ最盛期を取り戻した大将軍。皇帝からすれば、これほどの危険因子はない。最大の英雄は、最大の敵でもあった。その気になれば皇帝に反旗を翻すことは簡単だからだ。
もちろんベリサリウスにその意思はなかった。だが、疑念は一度生まれると、簡単には消えない。
540年、イタリアでの指揮権が突然剥奪された。
その直後にペルシアが再び侵攻してくると、今度はシリアに送り込まれた。ベリサリウスはここでも補給線を遮断するという巧みな作戦でペルシアを撃退した。
しかしユスティニアヌスの不信感は消えなかった。
再びイタリアに送られたが、今度は兵力も補給も何もかもが足りなかった。
さすがのベリサリウスもこの状況では戦えず、548年にイタリアの指揮官を解任された。その後は閑職に追いやられ、財産を没収されて幽閉された時期もあった。
晩年
561年、ベリサリウスは皇帝暗殺計画に加担したとして逮捕されてしまう。冤罪である。調査の結果、無実と判明して釈放されるが、両目をえぐられたとか、乞食にまで落ちぶれたという伝説が残っている。
ただし現在では、この話は後世の創作と考えられている。
実際に失明したという確かな史料は存在せず、18世紀以降のヨーロッパで広まった寓話的な伝説である可能性が高い。
それでもこの伝説は人々を魅了した。多くの画家や小説家が「施しを乞うベリサリウス」を題材に作品を残し、栄光の儚さを象徴する英雄として描いたのだ。
565年、ベリサリウスは世を去った。
ユスティニアヌス1世は「大帝」と呼ばれている。その功績の大半はベリサリウスが戦場で積み上げた実績なのだ。
北アフリカもイタリアも、ベリサリウスがいなければ取り戻せなかった。
強すぎるが故に将軍が皇帝の嫉妬に潰された話として読むこともできるし、どれだけ優秀でも主君次第で運命が変わるという話として読むこともできる。ローマ帝国は滅んだ。
ベリサリウスだけは最後までローマ人だった。少ない兵で戦い続け、失われた帝国を取り戻そうとした将軍。だからこそ後世の人々は彼を「最後のローマ人」と呼んだのである。