
「神はブタどもが入ることを許したわけですか!」
エルサレムのモスクに入ったフリードリヒ2世は、鳥よけの金網を見て管理人に尋ねた。
「これは何のためですか」と。「小鳥が入るのを防ぐためです」と答えると、フリードリヒは一言こう言った。
聞いていたイスラム教徒たちは唖然とした。この男は同じキリスト教徒を侮辱したのか。それとも本当に無神論者なのか。
「最初の近代的人間」と19世紀の歴史家に評されたフリードリヒ2世は、中世ヨーロッパでは完全な異端だった。
今回はフリードリヒ2世の生涯を簡単に解説していこうと思う。
- 時代背景——教皇と皇帝の権力闘争
- 出自——多文化の十字路シチリアで育つ
- 「世紀の奇跡」——神聖ローマ皇帝への就任
- 破門——教皇との激突
- エルサレム無血開城——外交の奇跡
- 誰も喜ばなかった成功
- 独特な実験好き——「最初の近代的人間」の奇行
- 最期——悲願を達することなく
- まとめ
時代背景——教皇と皇帝の権力闘争
13世紀のヨーロッパは「誰が世界の頂点に立つか」という問いで揺れていた。
ローマ教皇かドイツの神聖ローマ皇帝か。この二つの権力が激しく対立していた。
「叙任権闘争」と呼ばれるこの争いは100年以上続いており、フリードリヒ2世はその最中に生まれ、その真っただ中で生き、その嵐の中で死んだ。
出自——多文化の十字路シチリアで育つ
フリードリヒ2世は1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コスタンツァの間にイタリアで生まれた。
母コスタンツァは40歳を超えての初産だったため、血統への疑惑を払拭するために公開出産が行われたというから、生まれた瞬間から「証明」が必要な人生だった。
父は3歳のときに死んだ。母も翌年死んだ。孤児となったフリードリヒを後見したのはローマ教皇インノケンティウス3世だった。
しかし事実上の保護者なしに、フリードリヒはシチリアのパレルモで半ば放置される形で育った。
これが幸いした。
当時のシチリアはキリスト教・イスラム・ユダヤ・ビザンツという四つの文化が共存する地中海の十字路だった。
フリードリヒはアラビア語を含む6カ国語を習得し、イスラムの科学・哲学・文学に親しんだ。「お前はキリスト教の皇帝だ」という型に押し込む大人がいなかったのだ。
この幼少期の環境が、後の「異端の皇帝」を形作った。
「世紀の奇跡」——神聖ローマ皇帝への就任
フリードリヒの若い頃は政治的混乱の連続だった。
神聖ローマ皇帝の座をめぐって争いが続く中、フリードリヒは1212年にドイツ王、1220年に神聖ローマ皇帝となった。
しかしフリードリヒはドイツにほとんど関心がなかった。在位30年間でドイツに滞在したのはわずか9年。残りはシチリアのパレルモに宮廷を置いて過ごした。
ドイツの統治は諸侯に大幅に委ねた。
これが後にドイツの分裂を深める原因になるが、フリードリヒにとってドイツは手段であってシチリアこそが本拠地だった。
シチリアでは真逆の政策をとった。強権的な中央集権体制を敷き、貴族の城砦を破壊し、皇帝直属の行政官を各地に派遣した。
1224年にはナポリ大学を創設した。法典も整備し、神判(熱した鉄を手に持って無実を証明する慣習)や決闘裁判を廃止した。18世紀の啓蒙思想を先取りしたような条文が13世紀のシチリアに生まれたのだ。
宮廷にはユダヤ人・イスラム系の学者・天文学者・占星術師・数学者が集まった。フリードリヒ自身も鷹狩りの専門書を書き、動物学的観察を記録し、詩を詠んだ。
19世紀の文化史学者ブルクハルトは「王座上の最初の近代的人間」と評した。
破門——教皇との激突
フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝になる際、教皇への約束があった。「十字軍を率いる」というものだ。
ところがフリードリヒは先延ばしにし続けた。シチリアの統治が忙しかった。第5回十字軍も出発するそぶりを見せながら出かけなかった。
業を煮やした教皇グレゴリウス9世は1227年、フリードリヒ2世を破門した。
破門とはキリスト教社会からの追放宣告だ。
教会の儀式に参加できず、臣民はその君主への忠誠義務を免除される。中世においては死刑に次ぐ重罰だ。
ところがフリードリヒはその破門状態のまま十字軍を出発させた。
「破門されたまま聖地遠征に出た異端の皇帝」——前代未聞の出来事だった。
エルサレム無血開城——外交の奇跡
1228年、フリードリヒはエジプトに上陸した。
相手のスルタン・アル=カーミルは第5回十字軍のときに「ダミエッタと交換でエルサレムを返す」という和平提案をしていた男だ。その提案を拒絶された経緯があった。
しかしフリードリヒとアル=カーミルには奇妙な縁があった。
両者は文化的に通じ合う部分があった。
アル=カーミルはフリードリヒにペリカンやクマや象を贈り、フリードリヒはアル=カーミルに哲学・数学・科学の質問状を送った。戦場の外では知識人同士として交流していたのだ。
交渉の結果、フリードリヒは一滴の血も流さずにエルサレム・ベツレヘム・ナザレの返還と10年間の平和協定を勝ち取った。
エルサレムに入ったフリードリヒは、教皇から誰も参列を許されなかった戴冠式を自ら行った。頭に王冠を自分でかぶせた。「誰の許可も必要ない」という宣言だった。
そのとき同行したイスラム教徒の法学者が記録している。
キリスト教の聖書を持ってモスクに入ろうとした司祭にフリードリヒが激怒した場面、鳥よけの金網に「神はブタどもが入るのを許したのか」と言った場面——を。観察者たちはフリードリヒが「無神論者だったのでは」と感じたという。
またイスラム教徒の礼拝の声(アザーン)を聞いたフリードリヒは「私のためにこそ来た」と述べ、翌朝の礼拝の声を止めさせなかった。
誰も喜ばなかった成功
しかしこの歴史的な外交成功を、誰も評価しなかった。
教皇グレゴリウス9世は「破門中の異端者が勝手にイスラムと交渉した」と激怒した。
エルサレムの聖職者たちはフリードリヒが街に入ると鐘を鳴らして穢れを祓った。現地の十字軍騎士団も「戦わずして得た聖地」を認めなかった。
フリードリヒが帰国すると、教皇は南イタリアを攻撃していた。フリードリヒはこれを撃退して和議を結んだ。
その後も教皇との戦いは続き、フリードリヒは生涯に2度破門された。
独特な実験好き——「最初の近代的人間」の奇行
フリードリヒの「近代性」は時に奇妙な形で現れた。
「子供が誰とも会話しなかったら、何語を話し出すか」という実験を行ったとされている。新生児を乳母からも隔離し、言葉を一切与えないという実験だ。結果、子供は死んでしまったと伝わる。
非人道的だが、この「観察と実験」への執着が13世紀の皇帝の思考法だった。
鷹狩りについては「鷹とともに鳥を狩る技術について」という専門書を著した。
これは科学的な観察に基づいた当時最先端の動物学書とされ、現代でも研究対象になっている。
最期——悲願を達することなく
晩年のフリードリヒは北イタリアの都市連合(ロンバルディア同盟)との戦いに追われた。
1237年のコルテノーヴァの戦いで都市連合軍を粉砕したが、その後の交渉で強硬姿勢をとりすぎて和解の機会を失った。
教皇インノケンティウス4世から再び破門され、皇帝廃位まで宣告された。
息子のハインリヒ7世は父への反乱を起こして廃嫡・投獄されて死んだ。
1250年12月13日、フリードリヒ2世は56歳で病死した。
イタリア統一という悲願は達成されなかった。
死後、シュタウフェン朝は断絶し、神聖ローマ帝国は「大空位時代」と呼ばれる混乱期に入った。フリードリヒが60年先んじた「近代性」は、その時代には受け容れられなかった。
まとめ
破門されたまま十字軍を率い、血を流さずにエルサレムを取り戻し、誰にも評価されなかった。
6カ国語を話し、ナポリ大学を作り、神判を廃止し、イスラムの学者と哲学を論じ、モスクで「神はブタどもが入るのを許したのか」と言った。
ブルクハルトが「最初の近代的人間」と呼んだのは正確だったかもしれない。
しかしそれは13世紀には「理解できない存在」を意味した。
「理性の人であり続けた皇帝は、道徳と感情の力を測り損ねたのである」という歴史家の言葉が、フリードリヒ2世という男をよく表している。