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『楚漢戦争と英雄』英雄の視点で読む秦崩壊後の覇権争いを簡単に解説

 

天下無双の武人と、どうしようもないクズ。

そう評される二人の男が、秦という巨大帝国が崩壊した後の中国で、天下を賭けて激突した。名家出身で「敵なし」と謳われた項羽。農民出身で怠け者、女好きで人望だけはあった劉邦。誰もが項羽の勝利を疑わなかった。

だが結果は、まさかの逆転劇だった。

今回は楚漢戦争を、それぞれの英雄たちの活躍を軸に、じっくりと解説していこうと思う。

楚漢戦争とは

楚漢戦争は、紀元前206年から紀元前202年にかけて、項羽と劉邦が秦崩壊後の中国の覇権を巡って争った戦争だ。

わずか15年ほどしか続かなかった秦という王朝は、中国史上初めて全土を統一した記念碑的な帝国だったが、その統治はあまりに過酷だった。厳格な法治主義、重い労役、容赦のない税負担。万里の長城や阿房宮、始皇帝陵といった巨大建造物の造営には、常に数十万人規模の民衆が動員され続けていたとされる。始皇帝という絶対的なカリスマが存命のうちはかろうじて抑え込まれていた民衆の不満は、彼の死後わずか数年で爆発することになる。始皇帝の後を継いだ二世皇帝胡亥は、宦官趙高に実権を握られ、有能な家臣を次々と粛清するなど、統治能力の欠如を露呈していた。この統治の緩みが、反乱の連鎖を許す土壌になったのだ。

 

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秦崩壊の混乱——陳勝・呉広の乱

紀元前209年、労役に向かう途中で豪雨により遅刻が確定的になった陳勝と呉広が、「どうせ死罪になるなら」と反乱を決意した。

「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」——王や諸侯、将軍や宰相になるのに、生まれながらの血筋など関係ない、というこの言葉は、身分に関係なく誰もが天下を狙える時代の到来を象徴していた。それまでの中国では血統や家柄がものを言う時代が続いていたが、秦の統一と崩壊という激動を経て、実力さえあれば誰でも成り上がれる下剋上の気風が一気に広がっていったのだ。この乱自体は短期間で鎮圧されたが、これをきっかけに各地の旧六国の遺臣や有力者たちが次々と挙兵する。その中から頭角を現したのが、項羽と劉邦だった。

項羽——中国史上屈指の覇王がなぜ敗北したのか


楚の名家に生まれた項羽は、代々楚の将軍を輩出した家系の出身だった。祖父項燕は秦の大軍を一時打ち破った名将として知られ、最後は楚の滅亡と運命を共にして戦死した人物だ。その血を引く項羽は幼少期から並外れた体格と武勇を見せていたと伝えられている。身長は八尺(現在の換算でおよそ180センチ超)を超え、鼎を持ち上げるほどの怪力の持ち主だったとも言われている。

若き日、始皇帝の壮麗な行列を目にした際、「あいつにとって代わってやる」と豪語したという逸話は、彼の野心の大きさを物語っている。始皇帝の死後、叔父項梁とともに挙兵すると、たちまち軍事的才覚を発揮した。

転機となったのが鉅鹿の戦いだ。秦の主力軍と対峙した項羽は、渡河した後に自軍の船を沈め、炊事用の釜を割り、わずか三日分の食料だけを兵に持たせて決戦に臨んだ。退路を断ち、勝利以外に生き残る道がない状況を自ら作り出したのだ。この破釜沈舟の覚悟に奮い立った楚軍は、九度にわたる激戦の末に秦の主力軍を撃破した。この勝利によって、項羽は諸侯連合軍の総大将としての地位を確立する。

「敵なし」のカリスマ性に多くの人材が従い、中国史上最強クラスの軍団を築き上げた項羽は、20代のうちに天下をほぼ手中に収めるという、まさに天才の歩みを見せた。諸侯たちに新たな封地を分け与え、自らは「西楚の覇王」と名乗って事実上の盟主となった。だが、この圧倒的な強さこそが、後の彼の弱点にもなっていく。自分一人の武勇に絶対の自信を持つあまり、他者の進言に耳を貸さない傾向が次第に強まっていったのだ。降伏した秦兵20万人を新安で生き埋めにしたという苛烈な逸話も残っており、力による支配を徹底する一方で、民心を掴む配慮には欠けていたのかもしれない。

 

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劉邦——クズ男。それでもみんなに慕われた英雄


一方、劉邦は農民出身で、若い頃から働かずに飲み歩き、任侠じみた真似をし、我が子を捨てようとしたこともあるという、お世辞にも褒められた人物ではなかった。それでも不思議と人望だけは厚く、自然と周りに人が集まった。度量が大きく、細かいことを気にしない性格が、多くの人材を引き寄せる磁力になっていたのかもしれない。若い頃、始皇帝の巡幸の様子を目にした際には「ああ、男というものはあああるべきだ」と羨望のため息をついたという逸話も残っており、項羽の「取って代わってやる」という直接的な野心とは対照的な反応を見せている。

秦打倒の機運が高まる中、劉邦もまた挙兵し、項羽とは別ルートで秦の都・咸陽を目指した。当初、劉邦の軍勢は項羽に比べてはるかに小規模で、諸侯連合の中でも決して主力とは言えない立場だった。それでも比較的抵抗の少ない南方ルートを進んだことが功を奏し、項羽より先に咸陽入城を果たす。この時、劉邦は宮殿の財宝に目もくれず、住民に「法三章」――殺人・傷害・窃盗のみを罰し、それ以外の煩雑な秦の法律はすべて廃止するという簡潔な約束――を掲げて人心を掌握した。過酷な秦の統治に苦しんできた民衆にとって、この宣言がどれほど大きな安堵をもたらしたかは想像に難くない。この差が、後の展開を大きく左右することになる。

 

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鴻門の会——一杯の酒が救った命

先に咸陽に入城した劉邦の勢力拡大を、項羽は警戒した。当時、項羽の軍勢は40万、劉邦の軍勢は10万程度とされ、兵力差は圧倒的だった。この圧倒的な兵力差を背景に、項羽は劉邦を「鴻門」の宴に招く。これは事実上の暗殺の罠だった。

軍師范増は宴の最中、何度も剣舞にかこつけて劉邦を殺すよう合図を送ったが、実行役の項荘はためらい、決断しきれなかった。項羽の叔父項伯までもが、恩義のあった劉邦陣営の張良を案じて密かに剣舞に加わり、暗殺を妨害していたとも言われている。

この危機を、劉邦の軍師張良の機転が救った。家臣樊噲を宴席に呼び入れると、樊噲は盾で衛兵を跳ね飛ばし、生の豚肉を剣で切り取って豪快に食べてみせるという豪胆な振る舞いで場の空気を一変させた。この隙に劉邦は宴席から巧みに抜け出し、命拾いをする。この一件がなければ、楚漢戦争そのものが存在しなかったかもしれない。

張良——始皇帝暗殺に失敗した軍師


張良は、秦に滅ぼされた韓の名門貴族の出身だ。祖父と父は代々韓の宰相を務めた家柄だったが、その韓は始皇帝によって滅ぼされてしまった。仕えるべき国そのものを奪われた張良の胸には、秦への強い復讐心が燃え上がっていたとされる。

家財を投げ打って刺客を雇い、始皇帝暗殺を計画したが、狙った車列は影武者のものであり失敗に終わる。その後の亡命生活の中で、橋の上で出会った老人から靴を拾わされるという理不尽な試練を経て、一冊の兵法書を授かったという逸話が残っている。この書物こそが、後に張良を稀代の軍師へと育て上げることになった。

劉邦と出会った張良は、これまで誰にも理解されなかった兵法の知識を、劉邦だけが即座に理解し実行してみせたことに運命を感じたとされる。鴻門の会での機転だけでなく、後の垓下の戦いでも「四面楚歌」の策を献じるなど、劉邦陣営の頭脳として終始重要な役割を果たし続けた。

 

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蕭何——戦場に一度も立たずに漢の三傑筆頭とされた男


劉邦陣営には、もう一人の重要人物がいた。同郷の下級役人だった蕭何だ。法律や行政実務に精通し、劉邦がまだ無頼の暮らしを送っていた頃から何かと便宜を図っていた人物だった。挙兵の際、実は沛の県令に推されるべき立場にあったのは蕭何自身だったとも言われているが、彼はあえてその座を劉邦に譲ったという逸話も残っている。

咸陽入城の際、他の武将が財宝に群がる中、蕭何だけは秦の丞相府に真っ先に向かい、戸籍簿や地図、法律文書といった行政資料を確保した。長年にわたり秦の行政実務に触れてきた蕭何だからこそ、財宝よりもこうした統治資料の価値を正確に見抜けたのだろう。この判断が、後の統治において決定的な優位をもたらすことになる。項羽が後に咸陽を焼き払った際、貴重な資料の多くが失われてしまったが、劉邦陣営は蕭何が確保した資料によって天下の地理・人口・税制を正確に把握することができたのだ。

さらに蕭何は、出奔しかけた無名の兵士を月明かりの下で自ら追いかけ、連れ戻した。その男こそ、後に「国士無双」と呼ばれることになる韓信だった。「天下を取りたいのであれば、韓信を大将軍にすべきです」という蕭何の進言がなければ、韓信が実力を発揮する機会は永遠に訪れなかったかもしれない。楚漢戦争が始まってからも、蕭何は関中の統治と兵站の確保に専念し、劉邦が何度敗れても戦線を立て直せる体制を後方から支え続けた。

 

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韓信——乞食から大将軍になった天才兵法家


若い頃の韓信は、穀潰しと蔑まれ、町のチンピラに股をくぐらされた屈辱を味わっていた。食うに困り、川で洗濯をする老婆に何日も食事を恵んでもらっていたという逸話も残っている。「お前のような腰抜けが剣を差しているなら、私を刺してみろ。できないなら股をくぐれ」というならず者の挑発に対し、韓信は黙って股をくぐったとされる。この時の屈辱を、韓信は生涯忘れなかったと言われている。

蕭何の推挙によって劉邦軍の大将軍に抜擢されると、韓信はたちまち天才的な戦術眼を発揮する。「背水の陣」では、あえて味方を川を背にした退路のない状況に追い込み、決死の覚悟で戦わせることで趙の大軍を打ち破った。濰水の戦いでは、川の上流を土嚢でせき止めて水を溜め、敵軍が渡河している最中に堰を切って水攻めにするという奇策で、斉と楚の連合軍を壊滅させた。

項羽の下では、槍持ちの一兵卒として何度進言しても取り合ってもらえなかった韓信が、劉邦の下では史上最強クラスの名将へと変貌を遂げた。人材を正しい場所に置くことの重要性を、これほど雄弁に物語るエピソードもないだろう。

 

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垓下の戦い——四面楚歌と項羽の最期

紀元前202年、垓下で両軍は最終決戦を迎える。この頃には項羽の軍勢もかつての勢いを失い、兵糧も乏しくなっていたとされる。項羽の軍は韓信の巧みな用兵によって完全に包囲された。

張良の献策によって、夜になると楚の歌が四方から歌われ始めた。故郷の歌を聞いた項羽の兵士たちは、家族を思い出し、戦意を失って次々と脱走していく。「四面楚歌」という故事成語は、ここから生まれた。

兵の激減を悟った項羽は、寵姫虞姫と最後の酒を酌み交わし、「力山を抜き気は世を蓋う」と始まる詩を詠んだと伝えられている。虞姫はこれに応え、自ら命を絶ったとも言われる。項羽はわずかな手勢を率いて敵中に突撃を敢行し、烏江のほとりまで追い詰められると、川を渡って再起することも可能だったにもかかわらず、それを拒んで自刃して果てた。「江東の父兄に合わせる顔がない」というのがその理由だったとされる。天下無双と謳われた覇王の、あまりに劇的で、あまりに呆気ない最期だった。

なぜクズの劉邦が天才の項羽に勝てたのか

三つの理由がある。それぞれ見ていこう。

人材登用——項羽は自分一人の武勇に頼りがちで、有能な軍師范増の進言すら最終的には聞き入れなくなっていった。対して劉邦は、張良の知略、蕭何の内政力、韓信の軍才をそれぞれ適材適所で使いこなした。「三傑」を使いこなせたことこそ、劉邦最大の才能だったと言える。

継戦能力——蕭何が関中から絶え間なく兵と物資を送り続けたことで、劉邦は何度敗れても戦線を立て直すことができた。項羽がどれだけ戦場で個々の戦いに勝利しても、この底力の差には最終的に勝てなかった。

人望と度量——劉邦は自身の欠点を隠さず、身分の低い出自の人材であっても実力があれば重用し、有能な部下の進言を素直に聞き入れた。項羽は才能に恵まれすぎたがゆえに、他者の意見を軽んじる傾向があったとされ、この差が最終的な勝敗を分けたのだろう。

まとめ

項羽が天才的な武勇で天下にほぼ手が届きながら、劉邦が張良・蕭何・韓信という三傑を使いこなして逆転した。垓下で敗れた項羽が最後に見せた「江東の父兄に合わせる顔がない」という言葉には、天下を追い求め続けた男の、最後まで譲れなかった矜持が滲んでいる。

一人の天才よりも、適材適所で人を活かせる凡人の方が、最終的には勝つことがある。楚漢戦争は、そんな教訓を今に伝えている。項羽の劇的な最期も、劉邦の泥臭い勝利も、どちらも中国史上屈指のドラマとして、今なお語り継がれている。

楚漢戦争の英雄たち

楚(項羽側)

項羽(中国史上屈指の覇王、鴻門の会で劉邦を逃した男)

 

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漢(劉邦側)

劉邦(クズ男と評されながらも人望で天下を取った男)

 

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張良(始皇帝暗殺に失敗し、後に鴻門の会で劉邦を救った軍師)

 

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蕭何(戦場に立たず、内政と兵站で漢を支えた宰相)

 

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韓信(乞食から大将軍になった「国士無双」の天才)

 

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