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『ヤン・ジシュカ』隻眼の大将軍はなぜ無敗だったのか?生涯を簡単に解説

 

「俺が死んだら皮を剥いで戦太鼓を作れ。その太鼓を鳴らせば、敵は逃げ出すだろう」

ヤン・ジシュカ。15世紀ボヘミアの将軍で、生涯無敗とされている。しかも隻眼である。最終的に全盲となるが、それでも勝ち星を重ねた。率いているのは農民でも、ヨーロッパ最強の十字軍を相手だろうが、ジシュカにはまるで関係がなかったのだ。

 

冒頭は彼の逸話の一つである。死を前にしても、彼は味方を鼓舞して、敵に恐怖を与える影響力を確実に持っていたのだ。

 

なぜそんなことが可能だったのか。

 

今回はヤン・ジシュカの生涯を簡単に説していこうと思う。

 

 

時代背景

15世紀初頭、ヤン・フスというボヘミアの宗教改革者がいた。カトリック教会の腐敗を批判し続けた人物で、聖書に基づいた信仰を説き、教会の免罪符販売や聖職者の腐敗を糾弾していた人物だ。

 

民衆からの支持は絶大だった。しかし、教会側からすれば、扱いにくい人物であり、邪魔でしかなかった。つまり、存在が不要なのである。フスはドイツのコンスタンツ公会議によって、異端を判断されて、火刑に処された。安全を保証する約束を反故にされた上での処刑だった。

 

この狼藉に激怒したフスを慕う民衆は、各地で蜂起を起こす。次第に火種は大きくなっていき、ついには戦争にまで発展した。これが、フス戦争だ。ボヘミア王位を狙うジギスムントはローマ教会側に立って何度も十字軍を送り込んだ。正規の騎士軍団と、農民の寄せ集め。誰もがフス派の敗北を考えた。当然のことだ。軍人と農民の戦い。勝利は正規の軍に決まっている。しかし、その予想を覆した人物が、ヤン・ジシュカだった。

 

若い頃

ジシュカは1360年代頃、南ボヘミアの小貴族の家に生まれたとされている。と言うのも、ジシュカの若い頃の記録はほとんど残っていない。

 

伝承では、トロツノフの森の樫の木の下で生まれたとされている。 樫の木はチェコの民間信仰では「力・不屈・長命」の象徴であり、「彼は超人的な強さを持って生まれた」と語り継がれた。これは、民衆がジシュカを特別な存在として崇めていただけであり、

当然ながら歴史的根拠はない。

 

確実なことは、若くして傭兵として活動していたことだろう。1410年のグルンヴァルトの戦いにポーランド側として参戦した記録が残っている。この戦いはドイツ騎士団を相手にした大規模な会戦で、ジシュカはここで実戦経験を積んでいった。

 

この頃からすでに隻眼だった可能性がある。いつから隻眼だったのかは現在でもわかっていない。傭兵として各地を転戦する中で、多くの経験を積み、いつの間にか武将としても将軍としても、一流の能力を手に入れた。ジシュカは伝説の英雄となる無名時代から、すでに隻眼の英雄となっていた可能性が高い。

 

フス戦争勃発

 

1419年、フス派の行列が市庁舎前を通過した際、窓から石を投げつけられた。怒った群衆は建物に突入し、市参事会員たちを窓から投げ落として殺害した。第一次プラハ窓外放出事件と呼ばれるものだ。これがフス戦争の引き金となった。この時にジシュカはこの場にいたとされている。真相は不明である。仮にこの場にいたとしたら、感化されたことは間違いないだろう。

 

ジシュカはこの蜂起に加わり、一気に頭角を現していく。ジシュカが率いたのは農民の集団だった。剣の扱いを知らない、鎧を持たない、まともな武器すら持たない者たちだ。もちろん死への恐怖も克服していない勢いだけのただの一般人。相手は重装甲の騎士を揃えた十字軍だ。正面からぶつかれば虐殺されるのが関の山だ。

 

だからジシュカは正面戦闘は避けた。

 

革新的な戦術

 

 

ジシュカの最大の発明は、農民の荷車を改造した移動要塞だ。

鉄板と木材で補強した荷車に銃兵、弩兵、槍兵、小型砲を搭載した。荷車同士を鎖で連結して移動要塞を形成し、敵の突撃を防ぎながら銃撃と砲撃を浴びせる。「ワーゲンブルク戦術」と呼ばれるこの戦法は、後の機甲戦術の先駆けとも評価されている。

さらに当時まだ珍しかった火器を大量に採用した。重装甲の騎士はほぼ無敵の存在だったが、火器はその優位を崩す。訓練不足の農民でも扱えるという点も大きかった。どれだけ立派な鎧を着ていても、銃弾は貫通する。

地形の使い方も徹底していた。沼地、丘陵、森林、河川を利用して敵の騎兵を無力化する。平原での正面決戦をほとんど避け、常に地形を味方につけた。1420年のスドミェルの戦いでは数百人で数千人の騎兵を撃退している。

 

つまりジシュカの軍隊は、火器を積極的に投入して遠距離から攻撃。敵が疲弊したところで白兵戦に持ち込んだ。かつジシュカの地形を読む能力が異常に長けていたのだ。

 

1420年のヴィートコフ丘の戦いでは、プラハへの十字軍侵攻を要衝の丘を守り抜くことで撃退した。この勝利でフス派は存続に成功し、プラハには今もジシュカの名を冠した地区「ジシュコフ」が残っている。

 

盲目の将軍

 

ジシュカはもともと隻眼だった。

 

最初の片目をいつ失ったのかについては諸説ある。幼い頃の喧嘩が原因だという説、1410年のグルンヴァルトの戦いで失ったという説。どちらが正しいのかは今もわかっていない。ただ確実なのは、フス戦争が始まった時点でジシュカはすでに片目で戦っていたということだ。

 

1421年、ラビー城の攻囲戦でその残った片目も失った。

 

攻城戦の最中、敵の放った矢がジシュカの眼に直撃したのだ。あと数センチずれていれば即死だったとされる。ジシュカは隻眼から全盲となった。

 

普通の人間ならここで引退する。あるいは引退せざるを得ない。当たり前だ。戦場で目が見えないということは、そういうことである。敵がどこにいるかわからない。地形がどうなっているかわからない。仲間がどこにいるかもわからない。

 

しかしジシュカは戦場に戻った。

 

参謀たちが地形や敵の動きを耳元で伝える。ジシュカはそれを聞いて判断し、指示を出す。目が見えなくても、戦場全体を頭の中で把握する能力は衰えていなかった。むしろ研ぎ澄まされていったとも言える。視覚という情報を失ったことで、他の感覚と思考が補った。戦場の音、風の向き、馬の蹄の振動。ジシュカはそれらを統合して戦場を「見て」いた。

 

盲目になってからも十字軍を撃破し、フス派内部の敵対勢力も制圧した。1421年から1422年のクトナー・ホラの戦いでは、包囲されながらも移動要塞と機動砲兵を駆使して脱出、逆転勝利を収めた。軍事史上初の本格的な機動砲兵戦の一例とも言われている。

 

包囲された側が逆転勝利を収めるというのは、通常では考えられない。しかも指揮官は全盲だ。それでも勝った。

 

「盲目の将軍」という伝説はこうして生まれた。しかしジシュカにとって、盲目は言い訳にも障害にもならなかった。ただの条件の一つに過ぎなかったのだ。

 

 

1424年、ジシュカはモラヴィアへの遠征中に疫病で倒れた。敵に倒されたのではなかった。戦場では無敗のまま、病によって命の灯火が消えた。享年60歳前後。

 

「死後は自分の皮で戦太鼓を作れ」という言葉が史実かどうかは不明だ。ただこの逸話が語り継がれていること自体、ジシュカという人間がどれほど戦場に執着した人物として記憶されているかを示している。

 

彼の死後、軍勢は「孤児団」と名乗り、師の遺志を継いで戦い続けた。指揮官を失った後も勝ち続けたという事実が、ジシュカがどれほど優れた軍隊を作り上げていたかを物語っている。

 

チェコでは今もジシュカは国民的英雄だ。プラハのヴィートコフの丘には世界最大級の騎馬像が建っている。日本ではほとんど知られていないが、軍事史上では極めて重要な人物として評価されている。農民を率いて十字軍を破り続けた盲目の将軍の戦術は、後の近代戦争を200年先取りしていたと言われている。