太陽が沈まない帝国。かつてのスペインはそう異名を勝ち取り、最盛期を迎えました。その大帝国を作り上げた一族こそがハプスブルク家です。ハプスブルク家はどのようにして一族を大きくしたの? 戦争? 違います。
婚姻です。『戦争は他に任せて、何時は結婚せよ』という言葉が残るほど婚姻を重視していました。武力だけではなく、政治的な面で力を付けたのです。
ただこの方法には問題がありました。同じ血族同士での結婚を重ねた結果、遺伝的に体が弱くなり、心の病、そして顎が極端にとんがり奇形が生まれるようになってしまったのです。ハプスブルク家は力を追い求めて、ヨーロッパ全土で絶対的な力を得た要因の一つは、濃い血縁であることは間違いありません。しかし、ハプスブルク家を滅したのも、濃い血縁が原因となります。そもそもハプスブルク家とは何ものなのか?
始祖

ハプスブルク家の家祖と思われる人物の名は、グントラム金満公です。920年に東フランク王国(現代で言うドイツ)で、彼は生まれました。東フランク王国アルザス地方の貴族であったエティション家の一族だったグントラム金満公は王からアルザス地方の他にも、多くの領土は与えられました。
しかし、952 年になるとグントラムは帝国議会の場で裏切りの罪をかけられて多くの領土を没収されてしまいます。973年にグントラムは逝去しますが、グントラムの孫の活躍によって没収されていた領土の多くを取り戻すことに成功する。特に孫の1人であったラートボトは1020年から30年頃にかけてスイスにハビスブルク城を建築した。この城が家名の由来となった。
ルドルフの台頭
ハプスブルクを自称するようになったのは1108年頃になる。政治的な力を持つ大貴族との婚姻や、対立した貴族との領土争いで力を着実に付けていましたが、所詮は一介の貴族に過ぎませんでした。
そんなハプスブルク家を世に知らしめたのは、1218年に生まれたルドルフです。フリードリヒ2世から信頼を受けていたハプスブルク家は、それに応えるように、彼とローマ教皇との間で抗争が起きた際にも皇帝派として戦いました。この時代のローマ皇帝とローマ教皇について少しだけ解説します。
ローマ皇帝は、神聖ローマ帝国における政治上の最高権力者です。神聖ローマ帝国は962年頃に成立し、東フランク王国を基盤として、オーストリアやイタリア北部などを含む広大な領域を支配していました。
一方、ローマ教皇はカトリック教会の最高指導者であると同時に、教皇領と呼ばれる領地の君主でもありました。
このように、ローマ皇帝は政治のトップ、ローマ教皇は宗教のトップとして、それぞれ領土と権力を持っており、両者は教会と国家の関係をめぐってたびたび対立していました。
フリードリヒ2世は、学問や芸術を好む近代的な思考を持つ人物で、中世で最も進歩的であると評価されています。同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称されていました。その思想から危険視されていたのに、イタリア統一を強行したことで、ついに教会と対立して、ついには破門されることになった。
こうして1239年頃には、皇帝派と教皇派の対立は激化し、支持者同士の争いも起こるようになりました。
その中で、ルドルフ1世は皇帝派として行動します。しかし、同じハプスブルク家でも派閥が分かれていたので、ルドルフは彼らとの戦いに勝利をして拠点を奪っていきました。
1250年にフリードリヒ2世が死去すると、教皇派は安堵しました。1273年、諸侯たちはルドルフをローマ王(のちの皇帝)に選出します。
神聖ローマ帝国では、皇帝は選帝侯と呼ばれる有力諸侯による選挙で選ばれます。選ばれた人物は、戴冠を経て正式に皇帝となります。
ルドルフは選帝侯と対立が少なく、他の諸侯からも穏健な人物と見なされていました。また当時50歳を超えていたため、「長く続かないだろう」と考えられたことも選出の理由の一つでした。
こうしてハプスブルク家から初の神聖ローマ帝国皇帝に選出されました。しかし、全ては諸侯の思うように運ぶわけではありません。ルドルフはハプスブルク家の力を次の世代に継ぐ準備を開始しました。
それは敵対していたボヘミア王であるオタカル2世との戦争です。オタカル2世は皇帝候補でしたが、領土拡大への強い野心を警戒され、選ばれていませんでした。ルドルフは1274年の帝国会議で、不当に獲得された帝国領の返還を命じ、オタカル2世を標的としました。しかし彼はこれを拒否したため、帝国追放令が出されます。
さらに1276年には領地の没収が宣言され、1278年には戦争に発展しました。この戦いでルドルフは勝利し、オタカル2世は戦死します。1282年には、オタカル2世から奪ったオーストリアを息子アルブレヒトに与え、ハプスブルク家の勢力基盤をオーストリアへと移します。ハプスブルク家は着実にヨーロッパ有数の大勢力へと発展していくことになっていく。

オーストリアへの進出
オーストリア公国を手に入れた息子のアルブレヒト1世は、父であるルドルフ1世とは異なり、領土の権利や管理、収入の整理において貴族に対して厳しい態度を取り始めました。また、領土整理の過程で未開発の土地が見つかると、すぐにハプスブルク家の領土にすり替えました。
こうした導きは貴族の反感を買いましたが、一方で過酷な扱いを受けていた農奴や、各地で迫害されていたユダヤ人を保護し、生活環境の改善に努めたため、貧しい人々や迫害された人々からは好感を得ていました。
1291年、ルドルフ1世が死去します。これによりローマ王の座が空位となり、再び選帝侯による選挙が開始される。ルドルフ存命中に、アルブレヒトの継承も考えられていましたが、選帝侯たちは彼の冷酷で厳しい性格や、王権強化によって自らの権力が脅かされることを恐れ、アルブレヒトではなくアドルフ・フォン・ナッサウを新たな王に選出しました。アドルフはハプスブルク家の出身ではなく、ドイツ西部ライン地方を本拠とする貴族の一族です。彼は即位後、選帝侯たちの意向に反して王権強化を目指し、領土拡大を進めていきました。

一方、王に選ばれなかったアルブレヒトは、王位への野心を捨てずに持ちながらも、スイス周辺の領地経営に力を入れていきました。スイスでの領土拡大も狙っていましたが、1292年にオーストリアで反乱が発生したため、アルブレヒトはその鎮圧に向かいます。反乱の鎮圧に成功したアルブレヒトは、オーストリアでの権威を保つことになる。
傀儡として扱いやすいと考えていたアドルフが王権強化に努めて、ついに他領への干渉を強めたことで、ついに選帝侯たちの怒りが爆発。1298年に廃位されます。代わって王に選ばれたのはアルブレヒトでした。
もちろんアドルフはこの決定を受け入れず、両者はゲルハイムの戦いで衝突します。戦いの最中、アルブレヒトはアドルフから一騎打ちを挑まれ、これに応じて勝利し、新たな王としての地位を確立しました。

絵だけ見ると一騎打ちなんてかっこいいものではなく、リンチにしか見えません。
ところがその治世は長く続かず、1308年に甥のヨハンによって暗殺されてしまいます。どうやら、ヨハンに支払うはずの金銭を長年支払っていなかったことが原因とされています。
貴族に対しては厳格に領土や財産の管理を求めていたアルブレヒトでしたが、身内に対してはルーズな一面もあったのかもしれません。その後、ハプスブルク家以外のルクセンブルク家から王が選ばれましたが、その王も長くは続かず、1313年に死去します。
再びハプスブルク家が皇帝に選ばれたのは1438年のことです。アルブレヒト2世が選出されましたが、戴冠を果たす前に1439年、オスマン帝国との戦いの最中に死去しました。その後、フリードリヒ3世が皇帝となり、ここからハプスブルク家による皇帝位の事実上の世襲が始まります。1508年にはその子であるマクシミリアン1世が戴冠式を行おうとしましたが、ヴェネツィア共和国に妨害され、正式な戴冠を受けないままローマ皇帝を名乗り、ヴェネツィアへの攻撃を開始しました。
最盛期。カール5世と黄金時代

このマクシミリアン1世は、現在のフランス・ブルゴーニュ地方やベルギー、オランダにまたがる広大な領土を持つブルゴーニュ公国の相続人であるブルゴーニュのマリーと結婚していました。
マリーの父であるシャルルは、この結婚によって自らの家を皇帝家に近づけようと考えていました。しかし結婚成立後まもなく、シャルルは1477年に戦死します。
その結果、マクシミリアンは当時ヨーロッパ有数の富を誇ったブルゴーニュ領、すなわちネーデルラントやフランドルなどの豊かな地域を継承しました。
さらにマクシミリアンは、自らの子どもたちを各国の王家と積極的に結婚させることで、勢力を拡大していきます。その結果、イベリア半島の大部分や、ナポリ王国・シチリア王国へと影響力を広げ、ハプスブルク家繁栄の基礎を築きました。
「戦争は他国に任せよ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉の通り、彼は婚姻政策を最も成功させた人物とされています。その後、1519年にマクシミリアンの孫であるカール5世が皇帝に即位します。彼は同時にスペイン王でもあり、広大なスペイン領を統治しました。彼は一人で、ヨーロッパのほぼ全域に影響力を持つようになった。

ハプスブルク家はフランス王国と争いながらイタリアへの影響力を強め、ヨーロッパ各地へ勢力を拡大していきます。
その領土は非常に広大で、スペインが中南米に植民地を持っていたこともあり、カール5世の時代には「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるほどの規模となりました。さらに、カール5世の弟であるフェルディナント1世もボヘミア王・ハンガリー王に選ばれたため、ハプスブルク家の勢力は東ヨーロッパにも広がっていきました。
ハプスブルク家がどうして婚姻で成功したのか?
どうして、ハプスブルク家はここまで婚姻によって成功することができたのでしょうか。
まず大きいのは、ハプスブルク家の拠点であるオーストリアが、地理的に有利だったことが挙げられるます。
東ヨーロッパと西ヨーロッパの中間にあり、ドイツ・イタリア・ボヘミアといった地域に隣接していたため、あらゆる王家と関係を築きやすい環境にありました。
さらに、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の地位を得たことで、ヨーロッパにおける権威を手に入れていました。皇帝一家との婚姻は、それ自体が大きな価値を持つことになります。キリスト世界の最高権威である神聖ローマ帝国で王家と血縁を結ぶことは、それだけで莫大なアドバンテージとなる。
他国の王家にとっても魅力的な存在となりました。
つまりハプスブルク家は「結婚を望まれる側」であり、選ぶ側だったのです。
また、当時のヨーロッパでは女性が領土を相続するケースもあり、その結婚相手が実質的に領土を支配することができました。ハプスブルク家はこの仕組みを巧みに利用し、戦争をせずに領土を拡大していきます。
そして何より特徴的なのは、その戦略が一代限りではなかったことです。子や孫の代に至るまで計画的に婚姻が進められ、世代を重ねるごとに領土と権力が積み上がっていきました。
こうしてハプスブルク家は、武力ではなく婚姻によってヨーロッパ全土へと影響力を広げていき、最盛期である「太陽の沈まぬ帝国」とまで、呼ばれるようになりました。
陰り
しかし、すべてが順調だったわけではありません。この頃すでに、叔父と姪、いとこ同士などの近親婚が繰り返されており、その影響で「ハプスブルク家の顎」と呼ばれる下顎前突(しゃくれ)が一族に見られるようになっていました。
この症状は、下顎が前に突き出し、噛み合わせに支障が出るものです。マクシミリアンにもその傾向があったとされますが、カール5世ではさらに顕著となり、噛む力が弱く、食事にも支障があったと伝えられています。
こうした近親婚は、領土や権力を一族内に留めるために行われたものでした。その結果として、代を重ねるごとに身体が弱くなるなどの弊害が現れていきます。
やがてカール5世は1555年に退位し、領土を分割しました。スペインおよびネーデルラントなどの西方領土は息子のフェリペ2世へ、オーストリアおよび神聖ローマ帝国関係の領土は弟のフェルディナント1世へと継承されます。これにより、ハプスブルク家は「スペイン系」と「オーストリア系」に分裂していく。
スペイン系ハプスブルク家は、ネーデルラントやアメリカ大陸、イタリアなど広範な地域を支配し、さらに1580年から1640年にかけてはポルトガルも支配するなど、世界的な大帝国を築きます。
1588年、イングランド遠征を目的とした「無敵艦隊」が敗北したことで、スペインの国力は徐々に衰えていきました。
衰退
スペイン・ハプスブルク家の力は、やがて急速に衰えていきます。
1588年、イングランド遠征を目的とした無敵艦隊は約130隻で編成されていましたが、この戦いによってスペインに帰還できたのは約半数の67隻にとどまりました。
繰り返された近親婚は謙虚に現れて、スペイン・ハプスブルク家では病弱な王が続くようになります。その結果、幼くして即位する王が増え、政治が安定しない状況が生まれました。1621年に16歳で即位したフェリペ4世の時代には、有力貴族が実権を握るなど、王権の弱体化が進んでいきます。

カルロス2世は1661年に生まれ、わずか4歳で王に即位しました。しかし彼は生まれつき非常に病弱で、「ハプスブルク家の顎」と呼ばれる下顎前突などの症状を抱えていました。骨も弱く、成長とともに健康状態はさらに悪化し、政治は母による摂政に頼る状況となります。その間、ルイ14世が領土拡大を狙ってスペインに侵攻し、多くの領土を失いました。そして1700年、カルロス2世の死によってスペイン・ハプスブルク家は断絶します。
一方、オーストリアに残ったハプスブルク家は、フェルディナント1世から始まるオーストリア系ハプスブルク家は、1648年の三十年戦争によって一時的に勢力を弱めます。
しかしその後も皇帝位を維持し続け、1740年にカール6世が後継者を残さずに死去するまで、その地位を保ちました。カール6世の死後は娘のマリア・テレジアがオーストリアを相続しますが、これに反発したプロイセン王国との間で戦争が勃発します。
これはオーストリア継承戦争と呼ばれ、マリア・テレジアはイギリスの支援を受けて、最終的に相続権を認めさせました。彼女は、後にマリー・アントワネットの母としても知られています。
ハプスブルク家の男系はカール6世で断絶したため、マリア・テレジアの夫の家系を合わせた「ハプスブルク=ロートリンゲン家」へと移行します。
彼女の息子であるヨーゼフ2世は1765年に皇帝に即位しました。
しかし、多民族国家であった神聖ローマ帝国は次第に統制が難しくなり、各民族が自治を求めるようになります。
その結果、神聖ローマ帝国は最終的に解体へと向かい、1867年にはオーストリア帝国とハンガリー王国が分かれる形で再編され、オーストリア=ハンガリー帝国が成立しました。
1914年、帝位継承者であるフランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺されるサラエボ事件が発生し、第一次世界大戦が始まります。この戦争の結果、帝国は崩壊し、最後の皇帝であるカール1世は退位を余儀なくされ、一族とともに亡命しました。
こうしてハプスブルク家の長い歴史は終わりを迎えます。とは言え、その血筋自体が完全に途絶えたわけではありません。カール1世の子孫は現在でも存続しており、その一人であるカール・フォン・ハプスブルクは、現代においても政治家として活動しています。