今回は人生の半分は男性、もう半分は女性として生きたとされる「シュヴァリエ・デオン」の数奇で波乱万丈な人生をなるべく詳しく簡単に説明していきたいと思います。
シュヴァリエ・デオンは1700年に活躍したフランスの騎士でスパイですが、軍服を着用したデオンの姿をみて、マリーアントワネットがドレスをプレゼントするほど女性としか見えない容姿だったとされます。そんな容姿でしたので女装をして、ロシアにスパイをしていました。最近の子で言う井手上漠君みたいな性別を超越したような美少年だった元祖?偉人こそが、「シュヴァリエ・デオン」ですと、私は勝手に思っています。
はい、そんな感じで進めていきたいと思います。
幼少期
1728年にフランスで生まれたシュヴァリエ・デオンは弁護士の父親と貴族出身の母親の息子として生まれました。
デオンの本名は「シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン」で「シュヴァリエ」は通称で「騎士」と言う意味があります。
自伝によれば、幼少の頃から女の子に間違われるほど華奢で「髭は生えていない」「肌は白い」「ドレスを着ると美しい女性にしかみえない」と容姿に関しては女の子そのものだったとされます。
後にスパイや軍人として活躍するデオンなので、若い頃から文武両道の秀才だった。フェンシングの腕は一流、経済論文を発表して1749年にコレージュ・マゼラン(パリ大学の一部)を卒業すると、パリ財務局の秘書となって王立監視官に就任しました。
スパイ活動
1756年にデオンはルイ15世の私的秘密機関「機密局」(ル・スクレ・デュ・ロウ)に加わります。ロシアの女帝エリザヴェータに接触して、フランスに情報を流すよう任務を受けます。
当時のロシアは女性と子供しか入国ができなかったようなので、デオンは「マドモワゼル・リア・ド・ボーモン」として女帝つき女官となってロシアに潜入することになりました。軍事機密情報をフランスに流すことも仕事の一部だったデオンでしたが、無事に任務を終えました。
また、本気で求婚する男性もいたようなので、女装は完璧だったことが窺えます。
ロシアでの任務を終えたデオンは、イギリスに出向きます。イギリスでは男としてスパイ活動を行うのですが、ロシアからイギリスに訪れていた顔見知りに「どうして男装?」と問われてしまい身元がばれてしまいました。
しかも借金を抱えていたデオンは政治資金に手を出していたので、ルイ15世からの信頼を失ってしまい、フランスに帰国することができなくなってしまいました。
フランスに帰国
ルイ15世が亡くなったことでデオンは帰国するチャンスが訪れます。デオンには「実は女なのではないか?」という噂があったので、ルイ16世はデオンが女性であることを認めないと帰国は許さないと言い出しました。
シュヴァリエ・デオンは元スパイで、国のやばい情報をいくつも持っていますし、信頼もない人物でしたので、ルイ16世は帰国すること拒んだのです。
しかし、デオンはこれを利用して「私は女である」と宣言してしまいました。
この決断は当時のヨーロッパではある種、バクチでした。女性差別がまだ激しい時代でしたので、デオンはフランスに帰国できても生活が困窮してしまうことは明白でした。
「ドレスを着る」
つまり常に女装をすること。これが帰国の条件でしたので、デオンは常に女装することになります。
フランスに帰国したデオンはなんの事情も知らないマリー・アントワネットに軍服(男装)した姿を見られ。「かわいそう」と思われてドレスをもらったエピソードがあります。デオンの本音としてありがた迷惑だったかもしれません。
晩年
その後、デオンは死ぬまで「女性」として生涯を送ることになりました。これは、七年戦争で活躍して「シュヴァリエ(騎士)」と言う経歴すら、女性であるがために、軍人としての仕事はなくなりました。上記でも説明しましたが、これらを承知のうえで「女装」を選んだでしょうが、デオンはお金に困ります。
財産整理としてイギリスに渡っているあいだに、フランス革命は勃発して、フランスにあった財産は凍結して、年金も貰えなくなってしまいました。
生活に困窮したデオンは女装剣士として、フェンシングで有名な剣士に挑むことで賞金を得る生活をはじめました。
事故で胸に剣が刺さるまで、その生活も続けたとされます。剣士としての生活からも引退したデオンは、神経痛やリウマチで苦しみながらも、イギリスで未亡人と共に生活しました。
まとめ
デオンの存在を知ったときてっきり僕は性同一性障害的なものかと思いましたが、調べていくとそんな感じではないようで、他人の思惑に惑わされて数奇な人生を歩まされたって感じでした。
ちなみに、女性であると宣言したデオンでしたが、亡くなったデオンを解剖した外科医はデオンは男性であると断言しています。