とある時代ではハンセン病に感染すると兵役、納税、裁判、などの義務が免除された。この3つだけを説明すると、なんだかいい時代にように感じますが、そんなわけがない。これらつまり、市民権の剥奪、結婚の禁止、就業の禁止、そして社会的に隔離されることを意味した。人間として扱われないのだ。感染者は「感染者」であることがわかるような服装を義務付ける国もあったし、政府によっては強制的に隔離されることもあった。このような扱いは、300年頃の中世ヨーロッパから、19世紀になっても続いた。
ベルギー出身のダミアン神父は、誰もが恐れ、酷い扱いを受けていたハンセン病患者のケアに生涯を捧げた英雄です。自身も病に感染して命を落とすことになりますが、ダミアン神父の功績は尊敬されるものとなり、2009年には聖人に数えれるようになった。今回は偉大な英雄「ダミアン神父」の生涯を簡単にご紹介しようと思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
生涯
誕生
ダミアン神父の本名はヨゼフ・デ・ブーステル。1840年にベルギーで生まれたヨゼフは優しい子供であった。近所の家の牛を看病したこともあったし、物乞いにハムをあげたこともあった。子供から弱い者に味方する心優しい性質をもっていた。これらは家族の影響だ。母は聖人の生涯を話すのが好きで、兄、姉は修道院に入っていた。ヨゼフもまた家族の影響を受けて、19歳の時に宗教教育を受けることを決めた。
このときにダミアンと名乗り、北アメリカに渡って宣教師として活動することを望んだ。しかし、現実はそうはいかず、聖歌隊として入会することになった。海外に渡っての活動は危険ですし、農家生まれのヨゼフでは教養が足らなかったからだ。
驚くのはダミアンの努力だ。聖歌隊の活動をしながら、勉強をしていたと言う。なんでも四時間睡眠でもバリバリ過ごせるショート・スリーパーだったらしい。修道会側もダミアンの努力を認めるしかなかったので、司祭として教育することにした。ただ、ダミアンは司祭としては笑いすぎる明るい性格が難点として上げていた。
1863年にダミアンの兄がハワイに司祭として派遣されることになった。しかし、兄はチフスに感染してしまい話が頓挫した。それをチャンスとしたのは、もちろんダミアンだ。兄の代わりにハワイに行けることになったダミアンは心底喜んだ。1864年にはホノルルに到着して司祭としての活動をはじめた。8年も活動をしていると、嫌でもモロカイ島についての話を聞くことになる。ハンセン病患者は誰にも世話されることになくモロカイ島に隔離されている。心優しいダミアンがこんな話を聞いていて、黙っていられるような人間ではない。誰もがハンセン病を「死の病」として認知して、感染することを恐怖していた時代に、ダミアンは単身でモロカイ島に向かった。
モロカイ島
1873年にダミアンはモロカイ島にやってきた。ハンセン病患者以外で、常駐するのはダミアンが初だった。出発する前にダミアンはハンセン病患者の扱いを説明された。「患者との身体的接触は避ける」「患者が調理した食事は食べない」「患者の家に泊まらない」タバコや飲み物も患者が触れたのなら一切触れてはならない。最も強く言われたのが「ハンセン病そのものには一切触れてはならない」
結論から言うとダミアンはこれらのルールを守らなかった。島に上陸としたときにハンセン病患者から果物を貰った。傷口がうじ虫に覆われている少女がいたなら、ダミアンは手で包帯を巻いてあげた。当時の医者ですら、ハンセン病患者に直接触れることを恐れて、棒を使って巻いていたと言う。あなたならできるだろうか?
ダミアンは無法地帯となっていたモロカイ島の改善に努めた。教会の掃除に時間を費やしていくと、そのなかでハンセン病患者と仲良くなり、活動の協力者を得た。ダミアンの活動は注目を浴びて、義援金が集まるようになり、島の環境改善がドンドン進んだ。教会は信仰だけではなく、あらゆる活動の中心となっていった。
やがてダミアンは聖歌隊を結成した。病気によって衰えた声帯では上手く歌えなかった。オルガン奏者には指はなかったが、木片を指先に付けて演奏した。学校も造った。島の居住者90パーセントは農業をはじめた。島の孤児のために孤児院を造った。ダミアンはハンセン病患者と共に毎日夕食をとり、話し、歌い、喫煙パイプを共有した。かつて無法地帯とされて、荒廃したモロカイ島の姿はない。共同体から省かれたハンセン病患者が、健常者と同じように暮らせる日がくるなんてことは、誰もが信じられないことだったと思う。それは奇跡のようなことだった。1881年にハワイ島の王女が島に訪問するなど、世の中のハンセン病患者対する見方が変わりはじめのだった。
感染
実はハンセン病はそれほど感染力が高いわけではない。とある研究者によれば遺伝的に感染する確率は決まっていてるそうだ。とは言え、何十年も予防対策をなしでは感染しても仕方がないことなのかも知れない。
1884ダミアンは自身が感染したことを発表した。ハンセン病の初期段階は神経障害と言われる。ある日、ダミアンは熱いお茶を足にこぼしたそうだ。火傷してもおかしくない熱湯だ。なんだけど、痛みを感じない。戸惑ったダミアンは試しに自分でかけたがやはり感じない。その日からダミアンは患者達に「わたしの仲間の信者達よ」ではなく「私の仲間のハンセン病患者達よ」と話すようになったと言う。ハンセン病となってもダミアンは率先して活動を続けた。
日本人の後藤昌直による漢方治療を受けたこともあった。ダミアンは好んでこの日本人の治療を受けたと言う。しかし、1889年に4月15日にダミアンは多くの仲間に囲まれて49歳で亡くなった。
おわり
ダミアンは「ハンセン病患者との性交渉をしていたから感染した」とかめちゃくちゃなことを言われて功績を認められなかった。しかし、ダミアンの死後に島に訪れた「ジキルとハイド」の作者であるロバート・ルイス・スティーヴンソンによってダミアンの認知が高まり評価されるそうです。1930年になってダミアンはベルギーの英雄として評価され、2009年には聖人として数えられるようになりました。
このブログでは戦場で活躍した英雄を取り上げることが多いですが、今回はちょっと違った英雄をご紹介させてもらいました。なにも人間は、特別なカリスマ性や、人より優れた能力を持っていなくても、隣人に対して優しくできるだけで、英雄になれる。僕もそんな人間に憧れましたが、歳を重ねるたびに利己的になっているように思います。もう少し優しい人間になりたい。
ここまでお読みいただきありがとうございました。