オリガはキエフ大公国で実質的に女王をしていた人物であり、キリスト教を広めたことで「聖人」に数えられる人物なんです。聖なる人なんで善人かと思われるますが、ちゃっかり復讐を果たしてしまうような一面もある偉人だったりします。と言うか「オリガ」の代表的なエピソードは壮絶な復讐劇が殆どを締めてしまう。
今回は聖人であり復讐者でもあるオリガをご紹介していこうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
生涯
890年に頃にオリガは、ロシア北東部の町に生まれたとされています。しかし、964年に息子を産んだことを考えると890年に生まれは違う可能性があるようです。平民の娘である説とか、貴族の娘説があったりと、オリガの出生に関してはわからないことが多いようです。
903年に狩りに向かった地で、イーゴリと出会い二人は結婚することになる。イーゴリは北欧ヴァイキングが建国したキエフ大公国の公子であり、ヴァイキングなのでかなり好戦的な性格だった。各地で活発的に侵攻してキエフの恐ろしさを広めていたようだ。そんなイーゴリと結婚したオリガは各地に領土を持つようになり、裕福な生活を送れるようです。
ところがイーゴリは暗殺されることになる。従属民族であったドレブリャーニン人に通常の額を超える貢物を要求したことで、交渉の席で襲撃を受けたのだ。捕らえられたイーゴリは足元まで反らした二本の木を足に縛り付けられて、木が元に戻る力によって真っ二つにされると言う残忍な刑に処された。
復讐の始まり
イーゴリは亡くなったが、息子はまだ幼い。オリガは賢明で評判が良かったので、イーゴリの複数いる妻達の中でも位が高かった。なのでオリガがキエフを統治することになる。国を統治することになったオリガは、とりあえず国の慣習に従いイーゴリを殺された復讐を誓う。
ドレブリャーニン人のマルは友好的な態度を取り、「イーゴリは殺されるべくして殺された」とイーゴリを罵倒して、オリガに求婚したのだ。オリガは表向きは承諾して、一旦は帰国するように促した。その夜のうちに、オリガは穴を掘らせて再訪問した使節団を穴に落として生き埋めにした。
続いてオリガは友好的な態度で接しといて、「今度はこっちから向かうので、高貴な案内人を送れ」とマルに提案。それで高貴な案内人がキエフにやってきた。オリガは丁重にもてなしたが、彼らが風呂に入ると浴室のカギを締めて、火を放ち案内人を焼殺した。
そして、オリガはドレブリャーニン人の首都に向かい、しきたりに従って先の夫であるイーゴリの弔いの宴を要求した。宴がはじまりドレブリャーニン人が酔うと、マルを含めて数百人のドレブリャーニン人を兵士達に殺害させた。
まだまだオリガの復讐は終わらない。一旦帰国したオリガは大軍を引き連れて再訪する。町を燃やし尽くし、民衆を虐殺して、奴隷にした。一説では和平交渉を受け入れる方向を示しながら、民衆を殺し、あるいは奴隷にしたと言われている。まあ、やり過ぎ感は否めませんが、オリガはそういう人物なのです。
その後
復讐を終えたオリガはイーゴリの失敗を教訓として統治の改革を行った。無茶な貢物の要求を廃止して、地区の代理人に税の徴収を一任させて、諸侯に自治を任せることで不安を解消させたのだ。
また、異なる部族達に共通の価値観を持たせて、部族の連帯感を高めるためにキリスト教を導入した。奴隷、商人達を引き連れつつ、自身も可能な限り着飾ってギリシア正教を訪ねて、オリガは洗礼を受けたのだ。認められたオリガは、皇帝から、金銀、衣服、陶器を貰って帰国しました。
しかし、キエフにキリストを広めることはあんまり上手くはいかなかった。ロシアに教会を造ったが、国際的な認知度を高めることができなかったし、後継者である息子は、殴られても殴り返せないキリスト教徒を軟弱であると罵り、キリスト教への入信を拒んだ。
息子は戦争に明け暮れたようで、統治は最後までオリガに任せたようです。964年に長い闘病生活の果てにオリガは亡くなった。息子は嫌がったがオリガを尊重して、キリスト式で彼女を埋葬してあげたそうです。
死後にオリガは評価されてロシア初の「聖人」と数えられることになりました。
最後に
女を怒らせると怖いですね。生き埋めにされて、生きたまま焼かれて、泥酔したところを惨殺されたかと思いきや、町を焼かれる。ほんで奴隷にさるわけですから。オリガには気をつけましょう。
最後までごらんいただきありがとうございます。